「良くなりたいですね」
今日の本文には、38年もの間、病気で苦しんできた一人の人が出てきます。
当時のエルサレムには、病気や障がいを持った人が集まるベトザタという池がありました。
この池には時々、御使いが現れて、池の水をかき回し、水が動いた瞬間に池に入ると病気が癒されるという迷信がありました。
それで、病に苦しむ多くの人々が、この池の周りに集まっていて、その中に38年間病気で苦しんできた人もいました。
足が不自由だった彼を見て、キリストは言いました。
「良くなりたいか」
38年もの間、病気の人に対して「良くなりたいか」というのは、かなり上から目線のように感じますが、ここには訳し方の問題があります。
「良くなりたいか」というよりも「良くなりたいですね」「元気になりたいですね」と訳した方がキリストの品性が表現されているように思います。
この言葉を聞いた病人は、こう答えました。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)
普通の会話のキャッチボールを考えれば「良くなりたいですね」と聞かれたら「はい、良くなりたいです」と答えます。
しかし、彼はキリストの問いかけを無視してそう答えました。
なぜでしょうか?
心からの叫び
この病人は38年もの間、歩きたいけど歩けない、その原因もわからないし解決方法もないという苦悩に満ちた人生を歩んできました。
当時のユダヤ社会というのは、病人に対して優しい社会ではありませんでした。
病気は罪と結びつけて考えられていたため、そうなってしまったのは、本人や両親が罪を犯したせいだと責められていたと想像できます。
こういうことを考えると、7節の言葉は、彼が長年味わい続けてきた苦しみが詰まっている言葉です。
「どれだけ医者にかかっても治らない」
「だからこの池に来たけど、自分は足が不自由だからいつも他の人に先を越されてしまう」
「自分は一生このまま苦しみながら生きていく運命なんだ」
こういう心からの叫びだったと思われます。
だからこそ、この場面でキリストの問いかけに「はい主よ、良くなりたいです」ではなく、彼が自分の本音を語ることができたことに意味があるのではないかと思います。
本心でぶつかる信仰
日本人は本音で語ることが苦手です。
なぜなら、本心を見せるということは、自分の弱さをさらけ出すことだからです。
相手に悪く見られたり、変に思われたりしないためには、なるべく建前で話しておいた方がよいのです。
本音には不満や文句が混じるため、クリスチャンはもっと抵抗があるかもしれません。
しかし、神様の前で本音を隠して、建前で振る舞うことには何の意味もありません。
神様は私たちの全てをよく知っているからです。
キリストが十字架にかかったのは、私たち罪人のためですが、キリストは私たちの全てを知った上で、それでも私たちのために死んでくださいました。
神様に対して、自分の本音をぶちまけたからと言って、神様から「それは不信仰だ」「しっかりと信仰を持ちなさい」と私たちのことを責めることはしないはずです。
キリストも病人の迷信に満ちた言葉を聞いた時、彼の誤った認識を訂正したりはなさいませんでした。
彼が語った本心から、彼の苦悩や葛藤を理解し、ありのままを受け止めた上で、ただ「起き上がりなさい。歩きなさい。」と言われました。
私たちは神様の前に偽ることなく、飾ることなく、大きく見せることなく、ありのままでいればいいのです。