律法を聞きながら…
バビロン捕囚から帰還を果たした民を中心にして、イスラエルでは神殿が建て直され、街を囲っていた城壁や城門が再建されていきました。
そして、城壁が完成された翌月、第七の月の一日には、律法で定められている通り、安息の日として聖なる集会が催されました。
この聖なる集会の日に行われていたのは、律法の朗読でした。
エズラという律法の専門家が律法を読み、レビ人たちがその意味を民に説明しました。
この律法の朗読会は、夜明けから始まり、お昼を過ぎて、その日の午後まで長時間にわたって行われました。
普通、それだけ長い時間行われれば、2,3時間経ったあたりで「これいつまで続くんだろう」とか「早く家に帰りたいなあ」などと思ってしまうのでしょうが、当時の民の反応はそれとは全く異なるものでした。
民は皆、律法の言葉を聞いて、涙を流し始めたのです。
その場は、嘆きと悲しみに包まれました。
民が流した涙は、どういう涙だったのでしょうか?
人々は読み上げられる律法を聞きながら、この国が過去、どれだけ律法に反して生きてきたのかに心を痛めていました。
律法を与えた神様を無視し、その結果、イスラエルはバビロンによって破壊され、国を失ったという悲劇を、民は思い出していたのでしょう。
主を喜び祝う
そんな光景を見ながら、リーダーたちはこのように民に言葉をかけました。
「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこと、あなたたちの力の源である。」
涙に暮れていた民は、悲しむのをやめるように言われました。
なぜなら、その日は安息の日であり、聖なる集会の日だったからです。
そうだとしたら、神を信じる者が神の前で嘆いたり、悲しんだりすることはいけないことなのでしょうか?
そうではなく、聖書はむしろ、嘆きや悲しみに対して、肯定的に捉えています。
旧約聖書の詩篇の中には、人々が神に対して嘆いたり、悲しみを表したりしている表現がたくさん出てきます。
詩篇の記者たちは、神様の前で感じていたありのままの心を隠すことなく表したのです。
このように、どんな感情であったとしても、それは神様の前に隠す必要はないのですが、ここでポイントとなることは、嘆きや悲しみの先に神様がくださる喜びがあるということです。
嘆きや悲しみの中で、過去の過ちを反省し、自分の弱さを知ることは大切なことですが、神様が私たちに与えてくださる大きなプレゼントは、喜びです。
しかも、神様がくださる究極的な喜びは、何かが起こったことで感じる喜びではなく、神様という存在そのものを喜ぶ喜びです。
私たちは神様と出会うときに、神様が私たちのことを愛し、受け入れてくださることがわかります。
それは、どれだけ大きな失敗をしたとしても、ひどい状況に追い込まれたとしても、決して変わることはありません。
神様がいつも私たちと共に生きてくださる喜びが溢れる時、私たちの心と人生は、平安で満たされていくのです。