弟子に裏切られるイエス
イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われました。
よくキリスト教というと「愛の宗教」と言われるように、「愛し合いなさい」というのは、聖書の中心的な教えだと言えます。
皆さんは、この「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞いて、何を思うでしょうか?
この言葉通りに、互いに愛し合えるに越したことはありません。
互いに愛し合い、受け入れ合うことができるのなら、今、この世界で勃発しているあらゆる争いは起こらなかったでしょう。
ただ、現実を見れば、互いに愛し合うということがどれだけ難しいことであるのか、私たちは日々、人生の中で経験していることでしょう。
難しいことに、クリスチャンとして生きるようになると、逆にこの言葉が自分を苦しめてしまう場合もあります。
愛するべきだけと愛せない自分を見ながら「自分はダメだ」と、自分のことを責め、自分を否定してしまうことも起こり得ることです。
「愛し合う」ことは、ただの理想に過ぎないのでしょうか?
イエスは私たちの現実を知っていて「愛し合う」ことを求めているのでしょうか?
今日は、この互いに愛し合うことについて、分かち合っていきたいと思います。
今読んだ箇所は、最後の晩餐と言われる場面です。
十字架にかけられる前夜、イエスは弟子たちと時間を共にしていました。
その夜、イエスは弟子たちにパンとぶどう酒を与え、また、弟子たちの足を洗われました。
弟子たちは、誰もこれがイエスと共に過ごす最後の夜であるとは思いもしませんでした。
ただ、その中で一人だけ、他の弟子たちとは違う思いで、この場にいた弟子がいました。
それが、イスカリオテのユダです。
ユダは、これまで十二弟子の一人としてイエスに従ってきましたが、ユダヤの宗教指導者たち、銀貨30枚と引き換えに、イエスを彼らに売り渡す約束をしていました。
食事の席で、イエスは突然「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言って、弟子の一人に裏切られることを打ち明けました。
そして、その人物がユダであるということも明らかにされました。
イエスが「しようとしていることを、今すぐしなさい」とユダに言うと、ユダは、その場からすぐに出て行きました。
おそらくユダは、宗教指導者たちのところに向かったのでしょう。
これによって、イエスが逮捕されることが決定的となりました。
屈辱と敗北の中にあった栄光
イエスは、これまで3年半の間、一緒に時間を過ごし、最も信頼していた十二弟子のうちの一人に裏切られてしまいました。
これはとてもショッキングな出来事です。
自分を裏切る弟子が家から出ていく姿を見ながら、普通であれば「ああ、もう終わりだ」と嘆くことしかできないと思います。
しかし、イエスが言われたのは、それとは正反対のことでした。
ここで人の子というのは、イエスのことです。
イエスは、弟子に裏切られ、死ぬことが決定的になった時「今や、栄光を受けた」と言われました。
普通に考えれば、イエスは完全に敗北者です。
ただ捕まえられるのではなく、弟子に裏切られて逮捕され、殺されてしまうとすれば、それはとても屈辱的なことです。
当時、十字架で殺されるのは、見せしめのためであり、とても屈辱的な処刑方法でした。
イエスがそこで起こっていたこと、そしてこれから起こることをすべて知っていたのであれば、決して受け入れられるものではなかったはずです。
イエスの生涯は、栄光に向かっていたのではなく、屈辱と敗北だと言えます。
それにも関わらず、なぜイエスはそれらのことを「栄光」だと言ったのでしょうか?
私たちが考える「栄光」と、神様にとっての「栄光」は違います。
栄光というと、これと似ている言葉に、栄誉とか名誉という言葉があります。
例えば、オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を取るとか、そのように何か素晴らしいものを受けることを、栄光とか栄誉という言葉で表します。
普通、栄光という言葉は、社会的に高い評価を受ける時に使われます。
しかし、イエスは全てを奪われ、全てが終わってしまう時に、栄光を受けると言われました。
なぜでしょうか?
それは、イエスにとっての栄光というのは、何かを受けることではなく、与えることによって表されるものだからです。
イエスは信頼する弟子に裏切られ、敵対する人々によって十字架にかけられ、殺されました。
神の子であるにも関わらず、十字架という屈辱的な方法で処刑されることは、本来あってはならないことです。
しかし、イエスにとって十字架は、敗北ではなく、勝利でした。
そこにあったのは、私たちに対する愛でした。
十字架の死によって、イエスは私たちに命を与えてくださいました。
ここに栄光があるのです。
このように、イエスの栄光というのは、何か素晴らしいものを受けることではなく、自分自身を与えることによって表されたのです。
新しい掟として
それで、イエスは弟子たちに言われます。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。
イエスは新しい掟として、弟子たちに互いに愛し合うように言われました。
ただ、ユダヤにおいて「愛する」ということは、何もイエスが初めて教えたことではありません。
ユダヤ人が大切に守り行っていた教えである律法というものがあるが、この律法の中心的な教えが、愛することでした。
ある時、律法の専門家がイエスのもとを訪れて、律法の中でどの掟が最も重要かとイエスに問いかけたことがありました。
これに対して、イエスは「第一に、神を愛すること、第二に隣人を愛することである」と答えました。
イエスは、旧約聖書全体の律法を踏まえて、そう答えられました。
実際に旧約聖書を見ると、レビ記という書物の中に、こう書かれています。
イエスの時代のずっと前から、ユダヤ人は愛することを大切に考えていました。
イエスの時代に、ユダヤ人が特に大切にしていた3つのことがあるが、それが祈り、断食、そして、施しです。
施しというのは、無償で与えることであり、愛という言葉で置き換えることもできます。
イエスが言われたことは、特別に新しかったわけではありませんが、イエスは新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と言われました。
これのどこがどのように新しいのでしょうか?
レビ記と今日の本文の34節を見比べてみると、いくつか違いがあります。
その一つは、レビ記では「自分自身を愛するように」とあるのに対し、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」と言っておられます。
これまでの律法で言われていたことは「自分が自分を愛する愛」で、人を愛しなさいということでしたが、イエスが言われたのは「わたしがあなたがたを愛する愛」で、愛し合いなさいということです。
自分の限界を知り、受け入れていく
それでは、私たちが自分を愛する愛と、イエスが私たちを愛する愛とはどう違うのでしょうか?
イエスの愛について、ローマ書の中でパウロはこのように言っています。
ここでのポイントは「私たちがまだ罪人であったとき」という言葉です。
イエスは、私たち罪人のことを全て知っておられました。
恋愛が楽しいのは、お互いの全てを知らないからだと言えます。
まだ相手のことをよくわからないうちは、いろいろと想像して、楽しめるわけです。
でも、付き合って、結婚して、一緒に生活すると、今までわからなかった相手の姿が色々と明らかになってきます。
そうすると、付き合っていた時の感情だけではやっていけません。
忍耐の愛が必要となってきます。
イエスは、わたしたちの素晴らしい部分も罪性も、すべて知っておられます。
私たちのすべてを分かった上で、イエスはわたしたちのために死んでくださいました。
ここに、愛があります。
皆さんは自分のことをどれだけ愛しているでしょうか?
自分のことを愛せないという人もいると思います。
それは、自分のこういう部分が嫌だというところがあるからです。
嫌な部分を受け入れることは簡単ではありません。
だから、私たちが自分を愛する愛というのは、限界があります。
それに対して、イエスの愛には限界がありません。
そのイエスの愛で「互いに愛し合いなさい」と、イエスは言われました。
そうすると今度は「それこそ人間には無理じゃないか」と感じるかもしれません。
自分を愛する愛にも限界があるし、イエスの愛で愛することにも、私たち人間がやるとしたら限界があります。
そうだとすれば、イエスの愛で愛するということは、結局は理想論で終わってしまうのでしょうか?
ここで私たちが心に留めたいことは、まさにこのことです。
私たちには限界があるのです。
私たちは自分が人間であることを忘れると、生きづらくなります。
イエスの愛で愛そうしても、それができないことがたくさんあります。
私たちはイエスそのものではないからです。
もし私たちが「誰かを愛そう、愛さなきゃ」と自分に鞭を打ち続けるとしたら、そういう生き方は新しい掟ではなく、律法に縛られた古い生き方です。
「クリスチャンなのに人を愛せない自分はダメだ」と言って、自分を責め、自分を否定する生き方は辛いものがあります。
自分を知れば知るほど、自分のことが嫌になるかも知れない。
でも、本当の自分を知った上で、そんな自分を愛してくれる神様がいます。
その神様の愛で自分を愛し、人を愛せるようになっていくのです。
愛するというと、与えること、施すことをイメージすると思います。
ただ、私が愛するということにおいて大切だと思うのは、どれだけ与えられるかということだけではなくて、どれだけ受け入れられるかということです。
私たちを造った神様を受け入れ、自分自身を受け入れ、人を受け入れ、この世界を受け入れていく。
この過程の中に、神様の愛が働ていくのではないでしょうか。