教会の始まり
「教会」は、この社会において他に例を見ない、とても独特な組織です。
このことは、教会がどうやって始まったのか、その「始まり方」によくあらわれています。
会社や学校など、社会のあらゆる組織というのは、社会のある事柄に関心や情熱を持った人が、理念を掲げてスタートします。
しかし、教会というのは、そのように人間の情熱や社会への関心によって始まったわけではありません。
教会は、2000年前にユダヤにおいて初めて誕生したが、教会が始まったきっかけは、天からこの地に聖霊が注がれたことによります。
それはつまり、教会の始まりには、神様が大きく関わっていたことを意味します。
人間ではなく、神様によって始められたのが教会です。
そうだとすれば、教会が教会であるために求められることは何でしょうか?
それは、教会を始められたお方である三位一体の神様を礼拝すること、この一点に尽きます。
どの時代、どの地域、どういう形態かによらず、そこで三位一体の神様が礼拝されていれば、そこが教会となるのです。
聖書はまさに、三位一体の神様の働きによって教会がスタートしたことを伝えています。
ペトロが伝えようとしたこと
初めの教会というのは、使徒ペトロを中心として120人ほどの人々が集まっていたところに、さらに3,000人ほどの人々が仲間として加わったことによって始まりました。
そのきっかけとなったのは、五旬祭というユダヤで行われる大きな祭りの最中に、そこに集まっていた人々に向けて、ペトロが語った言葉にあります。
そこには、五旬祭の礼拝を捧げるために、世界各地から大勢のユダヤ人が集まっていました。
おそらく、ほとんどが、50日前の過越祭の時から引き続き、エルサレムに滞在していた人たちでしょう。
つまり、彼らは過越祭の中で、キリストが十字架につけられて殺される場に居合わせた人々です。
ペトロは一連のメッセージの結論として、こう語りました。
ここでペトロが伝えようとしたことは「イエスとは、誰なのか」ということです。
それはすなわち「神はイエスを主とされた」「イエスは主であり、メシアである」ということです。
「主」というのはすべての権威を持っていて、すべてを司っている立場にある存在のことを意味する言葉で、もともとは当時、世界進出を進めていたローマの皇帝に対して使われていた言葉でした。
また、「メシア」というのは、当時のユダヤで「救済者」という意味で使われていて、ユダヤ人はローマの支配から救ってくれる救済者、メシアを待ち望んでいたのです。
そんな中で、ペトロは、本当の主はローマ皇帝ではなくイエスである、この方こそあなたたちが待ち望んでいたメシアであると訴えたのです。
ざわつくユダヤ人たち
ユダヤ人たちは、このペトロの言葉をどのように聞いていたのでしょうか?
37節を見ると「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞き返しました。
彼らは、つい2ヶ月ほど前にイエスを十字架につけて殺してしまった張本人です。
多くの人々の脳裏には、鞭打たれズタボロになったイエスの姿、苦しみ悶えながら十字架で死んでいったイエスの姿が鮮明に焼き付いていたことでしょう。
「わたしたちはどうしたらよいのですか」という言葉には、救い主であるイエスを殺してしまったことへの焦りや戸惑いみたいなものが表されています。
おそらくこの時、人々の心の中に「罪の自覚」みたいなものが生じていたことでしょう。
ユダヤ人にとってイエスを十字架につけて殺すということは、決して悪意をもってやったことではありませんでした。
むしろ「神を冒涜し、ユダヤを混乱させる輩を抹殺する」という聖なる大義名分をもって行われたことだったのです。
彼らは、過越祭や五旬祭というユダヤの伝統的な祭りを守るために、エルサレムに集まっていた「信心深いユダヤ人」です。
神を信じ、ユダヤを愛し、悪に対する正義感に溢れていた人々です。
イエスの殺害というのは、決して極悪非道な犯罪者集団によって行われたのではなく、敬虔で信仰深い人々によって行われたのです。
これが示していることは、人が犯す罪というのは、いつも人の認識のうちにあるのではないということです。
罪というのは、時に熱心さや真面目さ、正義の中に隠れているのです。
人間を上回ってくる神
ただ、ここで注目すべき点は、この犯罪者集団が、最初の教会となっていったということです。
このように教会が成り立っていったことは何を意味するのでしょうか?
それは、人間の罪深さよりも、神の恵み深さがもっと深いということです。
36節の言葉を見てみると、ペトロは「人間がしたこと(イエスを殺したという罪)」と「神様がしたこと(殺されたイエスを主とした)」という二つのことを語っています。
本来、人々が犯した過ちというのは、もう取り返しのつかないことです。
どんなに反省したとしても、いくら悔やんだとしても、過去に犯した罪の事実が消えることはありません。
そうだとすれば、律法によって殺人の罪に定められ、刑罰を受けなければなりません。
こういう取り返しのつかないような罪の中で、神様は、殺されたイエスを主とし、メシアとなさいました。
神様はイエスを死から復活させ、さらに天にあげ、天から聖霊を注がれました。
もし、人間がやることがすべてであったとしたら、そこにもはや希望はありません。
しかし、神様がなさることは、人間の罪を上回ってきます。
ここに、希望があります。
罪深いこの世界において、そこに神様が生きて共に働いておられるからこそ、どんな事態が起こったとしても、前を向くチャンスが与えられているのです。