教会の誕生
先週のペンテコステの礼拝では、五旬祭という祭りの日に、突然、120人の弟子たちの上に、聖霊が注がれた出来事を分かち合いました。
聖霊に満たされた人々は、神様の御業を語り始めました。
五旬祭はユダヤの三大祭りの一つであるため、ユダヤ以外の地域からも、ユダヤ人だけではなくユダヤ教に改宗した人々も含めて、多くの人々がエルサレムに集まっていました。
人々は、聖霊に満たされた人々が、自分たちの国の言葉で神様の御業を語っているのを聞くことになりました。
祭りが終わり自分の国に戻った人々は、エルサレムで起こったことを周りの人に伝えたことでしょう。
そのようにして、福音が世界へと広がるきっかけとなったのが、この五旬祭でした。
その結果、イエスをメシアと信じた人々は、一緒に集まり始め、教会が誕生しました。
このように、聖霊という神様の力によって、人々は福音を伝え、福音を信じ、各地で教会が建てられていきました。
ここまでが、先週の話ですが、この聖霊について、もう一つ分かち合っておくべき大切なことがあります。
それは、聖霊というのは、私たちを一つにする力であるということです。
教会というのは、単にクリスチャンが同じ場所に集まっているということではなく、人々が一つにされているという意味があります。
人々を一つにするのが、聖霊の力だからです。
先週の場面の後に、弟子の中でペトロという人が立ち上がって、メッセージを語り始めました。
その話が、2章14節から書かれていますが、ペトロが結論として語っているのが36節です。
ユダヤ人はイエスのことを、神を侮辱し、叛逆しているということで、十字架につけて殺しました。
しかし、イエスこそ旧約聖書で預言されたいた存在であり、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアでした。
神を侮辱し、叛逆していたのは、実はイエスではなく、ユダヤ人の方だったのです。
こういう話を聞いて、そこにいた多くがイエスをメシアとして受け入れました。
そして、今日の41節にあるように、3000人もの人々が洗礼を受けることになったのです。
これはエルサレムというところで起こった話ですが、この時に信仰を持った人々がエルサレム教会となり、このエルサレム教会が世界で最初の教会だと言われています。
一つである集まり
この教会にはある一つの特徴がありました。
44-47節までを見ると「一つ」という言葉が繰り返し出てきます。
44節「信者たちは皆一つになって」
46節「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」「喜びと真心をもって一緒に食事をし」47節「主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである」
このように、初めの教会の大きな特徴は、一つであったことです。
教会が一つであるということは、この世の団体や組織が一つであることとは、本質的に異なります。
教会はどういう意味で一つなのでしょうか?
ペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けた3000人の中にはユダヤ人だけではなく、五旬祭の礼拝を捧げるためにエルサレムに来ていたユダヤ教に改宗した異邦人もいたでしょう。
この群れは言葉や文化が異なる人々、裕福な人、貧しい人、あらゆる人々で構成されていました。
それでも、彼らはただ「イエスはメシアである」という告白によって、一つの群れをなしていたのです。
教会というと、一般的に教会の建物のイメージが強いかもしれませんが、教会というのは建物のことではなく「イエスはメシアである」と信じる人々の集まりのことです。
だから、教会には国籍や人種、性別や年齢など、異なるバックグラウンドを持った人々が集まることができます。
何かの条件を満たしているかとか、試験をパスしたりする必要もありません。
教会はただ「イエスはメシアである」と告白する人々の集まりです。
イエスキリストが、教会の頭であり、このキリストを頭とする体が教会です。
パウロは教会について体というイメージを強く抱いていたようです。
体の特徴は、一つというところにあります。
私たちが名前も知らないような器官も含めて、あらゆる部分がそれぞれの役割を持って、一つの体を成しています。
そこには必要のないものは一切ありません。
すべての部分がお互いに支え合い、補い合うことで、一つの体が成り立っています。
そのように、3000人の人々の集まりである教会は、一つの体を建て上げていきました。
もちろん、全員が一緒に集まることは難しかったと思いますが、共に聖書から学んだり、一緒に食事したり、祈ったりしながら、お互いに関わりを持ちました。
また、自分の財産や持ち物を売って、各々の必要に応じて、それを分け合いました。
そして、毎日一緒に神殿で礼拝を捧げ、神様を賛美する生活を送っていました。
このように、初めの教会の最大の特徴は、キリストを頭として、一つの体をなしていたことにあります。
初めの教会は、みんなが一つになっていた、ワンチームの集まりでした。
人間の一致団結
「ワンチーム」とか「一つになる」というのは、とても美しい概念ですが、ただ、一つであることがいつも良いこととは限りません。
旧約聖書の創世記には、人間が一致団結して、神様に逆らった事件が書かれています。
創世記11章に、バベルの塔の話が出てきますが、その当時の世界は、一つの言葉を使う一つの民によって成り立っていました。
言語が一つだけだったので、みんながよくコミュニケーションを図ることができました。
それによって、一つになった民は、天まで届く塔のある町を建てる計画を立てました。
そこには、有名になって、今いるところから散らされないようにという思いが込められていました。
ただ、実はこの計画は、自分たちがこの世界の支配者になろうという、悪い動機によって持ち上がった計画でした。
人々は、本当の支配者である神様を無視して、自分たちが世界の支配者として君臨しようとしたのです。
それで神様は、町の建設計画をストップすることにしました。
そのために、人々の言語を混乱させて、お互いがコミュニケーションを取れないようにされました。
その結果、建設計画は挫折し、一つであった民は全世界へと散らされていきました。
この出来事を見ると、バベルの塔を建てようとした人々は、皆が一つの言葉を話す一つの民で、一つの目標に向かって、一致団結していました。
まさに、ワンチームでした。
しかし、神様は彼らの一致団結を喜ばれませんでした。
それは、悪い方向に、人々が一つになってしまっていたからです。
これと同じように、神様に逆らう形で一致団結していた人々が、2000年前のイエスの時代にもいました。
イエスが逮捕された後、ユダヤの宗教指導者たちは、イエスを十字架にかけるために、一致団結しました。
その時、イエスの裁判を司っていたユダヤの総督であるポンテオ・ピラトという人は、イエスを釈放しようとしました。
しかし、ユダヤ人たちは「十字架にかけろ」と叫び、イエスを殺すことを求めました。
その結果、ピラトはユダヤ人の暴動を恐れて、彼らの求めに従って、イエスを十字架につける命令を下しました。
このように、人間が一致団結した結果、イエスは十字架で殺されることになりました。
こういうことを見ると、人間というのは、必ずしも良いことのために、清い動機を持って、一致団結するわけではないことがわかります。
何か共通の相手に立ち向かおうとする時、敵対心によって、そこには強い一体感が生み出されます。
これまでの歴史を見てもわかるように、国や民が正義という名のもとに一致団結した結果、いろんな悲劇が繰り返されてきたのがこの世界です。
キリストの平和
しかし、神様が教会に望んでおられることは、人為的に作り出される一体感ではない。
イエスキリストの体として、一つになることです。
人種や身分、性別に関係なく、キリストに結ばれることによって、教会は一つになることができます。
キリストによって一つにされている集まりが、教会です。
今の世界を見れば、国や民族同士の争いによって、分断が進んでいるように見えます。
最近のニュースで言えば、イスラエルとパレスチナ、またイランとの間で戦闘が激化しています。
アメリカでは移民政策の問題で、分断が起こっています。
言い分はあるのだと思いますし、不正や悪に対しては声を上げたり、行動することが求められることもあるでしょう。
だからと言って、人が人と敵対し、分裂していくことは神様が望むことではありません。
こういう分断は国レベルに限った話ではなく、私たちの身近なところにも潜んでいる問題だと言えます。
もしそれが、人の命が蔑ろにされたり、人間同士がお互いの尊厳を傷つけ合ったりする形で行われているのであれば、それは神様の方法ではなく、間違った対立だと言えるでしょう。
初めの教会である3000人は、お互いの違いを乗り越えて、聖霊によってキリストの体として一つになることができました。
あらゆる違いが分裂を生んでいる今の世界にあって、キリストの平和がこの地に満たされることを祈ってやみません。