イエス、天へ帰る
来週の日曜日は、教会のカレンダーでは、この地に聖霊が降されたことを記念して捧げる聖霊降臨節(ペンテコステ)の日です。
また、その日には、私たちの教会の創立17周年をお祝いする礼拝を一緒に捧げたいと思います。
聖霊というのは、イエスが復活した後、50日後にこの地に注がれた神様の霊です。
弟子たちの上に聖霊が注がれた後、彼らはユダヤを出ていき、今のトルコやギリシャの方まで福音を伝えに行きました。
そして、各地にクリスチャンたちの集まりである教会ができていきました。
聖霊が注がれたことを記念するペンテコステは、イースターとかクリスマスと同じように、ほとんどの教会でお祝いされると思います。
でも、実はその10日前にも、キリスト教のお祝いの日があります。
それが、昇天祭や昇天日(Ascension Day)と呼ばれているものです。
この昇天日というのは、イエスが天に上げられたことを記念する日です。
イエスが復活した後、40日後に、イエス様は天に上げられました。
これはイースターから40日後に当たるので、今年の昇天日は先週の木曜日でした。
聖書の中で、イエスが昇天する瞬間を描いているのが、まさに先ほど読んだ箇所です。
イエスのこの地での歩みは、十字架の死で終わったわけではありませんでした。
死から3日後に復活しましたが、これが終わりでもありませんでした。
復活した40日後、イエスは天に上げられました。
この昇天が、イエスのこの地上での最後の出来事です。
十字架とか復活については、よく礼拝のメッセージでも語られることがありますが、昇天については、聞く機会は少ないように思います。
イースターとかクリスマスのような感じで、昇天日をお祝いしたりすることもあまりないでしょう。
昇天したイエスは、いつの日か、この地に再び来られる(再臨)というのが聖書の約束にあります。
聖書で、イエスの再臨はクリスチャンたちの希望として語られている出来事です。
そうだとすると、イエスは天に上げられない方が良かったのでしょうか?
復活した後、昇天することなく、この地上にずっといてくれた方が良かったのでしょうか?
そもそも、なぜ、イエスはせっかくと言ったら変かもしれませんが復活して、弟子たちと再会することができたのに、その弟子たちを置き去りにして、天に帰って行っちゃったのでしょうか?
父の右の座において
イエスが天に上げられる瞬間、そこで何が起こっていたのか、それを記しているのが今日分かち合う聖書の箇所です。
イエスは弟子たちが見ている中で、天に上げられていきました。
天に昇っていったイエスは、雲に覆われていき、弟子たちの目には見えなくなりました。
この時、弟子たちはどういう気持ちで天を見ていたでしょうか?
多分、みんな突然の出来事すぎて、呆気に取られてただ天を見上げていることしかできなかったでしょう。
弟子たちからしたら、せっかく復活して再会できたのに、またいなくなってしまいました。
復活したイエスと、この後もずっと一緒にいられると思ったのに。
イエスがメシアとしての力を発揮して、ユダヤを救ってくれると信じていたのに。
よし、これからというタイミングで、また、いなくなってしまったのです。
送別会をすることもなく、イエスを突然失ってしまったのです。
弟子たちからしたら、イエスの昇天は、お別れの時でした。
それは、悲しい出来事だったのです。
それでは、なぜイエスは弟子たちのもとを離れ、天に上っていったのでしょうか?
神様はご自身の力をイエスに働かせました。
その力によって、イエスは死者の中から復活しました。
また、同じように、その力によって、イエスは天に昇っていきました。
そして、天に昇ったイエスは、父なる神様の右の座につきました。
この「父なる神様の右の座についた」ということが、天に昇った意味です。
イエスが父なる神様の右の座についたということは、何を意味しているでしょうか?
それは、イエスが、この世界を治める王として即位されたということです。
右の座というのは、当時のユダヤにおいて、権威を表すポジションでした。
つまり、イエスは、天の右に座において、父なる神様からすべての権威を委ねられたということです。
この世界を治められる方として、イエスは天において神様の右の座についたのです。
聖霊を注ぐために
このことは、この後に起こる聖霊降臨と深い関わりがあります。
今日の場面で、イエス様が天に上げられる直前に話していたことがあります。
それは、聖霊を待ちなさいということ、また、聖霊の力によって、福音が広がっていくという話です。聖霊に関する話です。
これは、イエスが地上にいる間、最後に言った言葉であり、遺言のような言葉だと言えるでしょう。
イエスの最後の言葉からも、イエスが天に上げられたのは、この地に聖霊を注ぐためであったことがわかります。
実際に、イエスが天に昇ってから10日後に、約束されていた聖霊が天から注がれました。
天に上げられた後、イエスは、すぐにこの地上に対する支配を開始したのです。
それが、聖霊に支配だったのです。
そういう意味で、聖霊が降されたという出来事は、イエスが王としてこの世界で活動しておられることの最大のしるしです。
この世界を治め、導く王として働くために、イエスは天に戻っていかれました。
この使徒言行録という書物は、ルカという人が書きました。
ルカは、福音書を第一巻として書いて、第二巻として、使徒言行録を書きました。
なので、福音書と使徒言行録は、本来は、一つのセットです。
ルカによる福音書はどのように終わっているかというと、他の福音書と異なり、イエスの昇天によって終わっています。
そして、使徒言行録は、イエスの昇天によって始まっています。
つまり、ルカが書いた2つの書物の中心にあるのは、イエスの昇天という出来事でした。
イエスの昇天がなければ、聖霊が注がれるということもありませんでした。
聖霊が注がれなければ、この地に教会が誕生するということもありませんでした。
だから「ハッピーイースター」「メリークリスマス」とお祝いするように、私たちは「ハッピーアセンション」と、イエスの昇天を祝おうではありませんか。