牧師ブログ

「イエス様が最も恐れたこと」

死を覚悟していたはずなのに…

十字架で殺される前夜、キリストはひどく恐れ、悶え苦しんでいた。
弟子たちにとっても、こんなにも憔悴しきっている師の姿を見たことはなかったであろう。
なぜそれほどまでに、神ご自身であるキリストが苦しまなければならなかったのか?

キリストは十字架にかけられる前夜、父なる神に祈りを捧げるために、弟子たちを引き連れてゲツセマネというところを訪れていた。
このゲツセマネというのはエルサレムに位置しているが、キリストが自らエルサレムに来られたことには、とても大きな意味がある。

エルサレムにはキリストに敵対する勢力であるユダヤの宗教指導者たちの本拠地である。
彼らはキリストを殺そうと、その機会を虎視淡々と狙っていた。
そのため、エルサレムに行くということは、敵陣に入っていくことであり、それはすなわち死を意味した。
つまり、キリストはこれから自分の身に何が起こるのかということをすべてわかった上で、エルサレムに入ったのである。

そうだとしたら、本来、期待されるキリストの姿というのはどういう姿か?
死という自らの運命を受け入れ、堂々と敵に立ち向かう神らしい姿である。

しかし、十字架にかかる前夜、ゲツセマネに来られたキリストの姿を見ると、そういうものとは遠くかけ離れていた。
キリストは明らかに、これから待ち受けている十字架の死を恐れていたのである。
「できることなら、この苦しみの時が過ぎ去るように」と祈るほど、キリストにとって十字架の死は、簡単に受け入れられるようなものではなかった。

十字架の苦しみの正体

この時キリストが負っていた苦しみを、私たちが想像することはできても、本当に理解することは難しい。
なぜなら、十字架の死に向かう中で、キリストが負った苦しみというのは、キリストにしか負うことのできない苦しみだからである。
これはどういうことか?

キリストはこれから死刑囚として殺されなければならなかったが、十字架の死には、犯罪者として死刑になること以上の意味があった。
キリストが十字架刑に処された時、そこには他に二人の死刑囚がいた。
この二人の処刑理由は、強盗という罪のためである。

しかし、キリスト自身は、全く罪を犯したことのない方であり、キリストの裁判を導いたローマ総督のピラトもキリストに罪がないことを認め、釈放しようとした。
ただ、裁判の場にいたユダヤの宗教指導者たち全員が「十字架につけろ!」と叫び続けたため、最終的にピラトは民衆の要求を受け入れざるを得なかった。

つまり、キリストが十字架にかけられたのは、自らの罪のためではなく、ユダヤの民の要求によるものだった。
これは、キリストを神として認めない罪であり、まさにこの罪によってキリストは十字架で死ななければならなかったのである。

罪のために殺されるということは、何を意味するだろうか?
それは、罪に対する神の裁きを受けるということである。
キリストは本来、すべての人が負うべき罪の裁きを代わりに受けてくださった。
神ご自身であるキリスト、父なる神の最愛の息子であるキリストが、父の裁きを受けることになったのである。

そこにあったのは、単に死刑囚として殺されるという恐怖、人に見捨てられるという孤独感だけではない。
キリストの苦しみの中心にあったもの、それは「父なる神に見捨てられる」という痛みだったのである。

十字架の愛

苦しみ悶えながら祈るキリストの祈りを、天にいる父はどのように聞いていたのだろうか?
キリストの祈りに対して、父なる神が何か応答したのかどうか、聖書には書かれていない。
キリストが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈った時も、父なる神の応答は書かれていない。

もちろん、父は我が子であるキリストが嫌いだから、憎いから見捨てたわけではない。
苦しみ悶える我が子の姿を見ながら、父なる神も耐えがたい痛みを感じていたはずである。
罪なき愛する我が子に対して、罪の裁きを負わせ、見捨てなければならない父の痛みはどれほどのものだっただろうか。

キリストが父なる神から見捨てられる苦しみを感じていた時、父なる神も同じように、我が子を見捨てる苦しみを負っていたのである。
キリストの十字架には、そういう二つの苦しみが重なり合っている。
見捨てられるキリストの苦しみ、そして、見捨てなければならない父の苦しみである。

なぜ父なる神は、愛する我が子であるイエスを見捨てるようなことをされたのか?
なぜキリストは、父なる神から見捨てられるという十字架の死を受け入れることができたのか?
それは、私たちにその苦しみを負わせないためである。
つまり、私たちが罪に対する裁きを受けなくてもいいように、私たちを救うためである。
本来、キリストが負った苦しみは、私たち人間が自ら罪を犯した責任として負うべきものである。
だから、父なる神はキリストではなく、私たちに罪の責任を問わなければならない。

しかし、父なる神は罪の裁きを受け、見捨てられるという苦しみを我が子に負わせた。
キリストは、私たちが罪の裁きを受けて、父なる神に見捨てられる痛みを負うことがないように、そのすべての苦しみと痛みを自ら負ってくださった。
ここに、神様の愛がある。

十字架を見れば、何があっても私たちを見捨てることのない神の愛がわかる。
人生が思うようにいかない時、人に裏切られ、見捨てられる時、死にたいと思うほど辛い時、それは神に見捨てられた結果として起こったことではない。
神のこの愛と赦しの恵みを受け取るのであれば、私たちの人生から希望が失われることはないのである。