牧師ブログ

「どこを向いているか」

私たちは普段の生活の中で「何をすべきか」ということをよく考えている。
人間関係において、学校の勉強や職場での働きについて、いつも「どうしたらいいのか」とか「何ができるのか」が求められている。

しかし、何をするかの前に、まず考えるべきことは、いま自分が「どこを向いているか」ということである。
なぜなら、表に現れてくる行動は、その心がどこに向いているかによって正しく意味づけられるからである。

▶︎ 選ばれしサムエル
最後の士師であるサムエルが生きた時代には、いくつかの特徴がある。

⑴ 神に仕える祭司までもが堕落していた
⑵ 神の御言葉が語られなかった
⑶ ペリシテという国に支配されていた

ヨシュアの次の世代の新しいイスラエルは、カナンの土着の宗教であるバアルやアシュトレトという偶像を拝むようになっていたが、それだけではなく、本来、民を霊的に導くはずの祭司たちも、民がいけにえとしてささげるために持ってきた肉を、焼かれる前に奪い取ったり、幕屋で働く女性と性的な関係を持つなど、大きな罪を犯していた。

また、サムエル記上3:1に「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とあるように、御言葉がほとんど語られなくなっていた。
神様は、エリのもとで祭司の下働きをしていたサムエルを通して御自身を示し、神の言葉を語るしかなった。

そして、イスラエルはペリシテとの戦いに敗れ、大きな打撃を受けていた。武器を自由に作ること許されておらず、イスラエルの実権は、ペリシテに握られていたと言える。

このように国全体が霊的にも政治的にも混沌とした状況にあったイスラエルにおいて、神様はサムエルを選び、彼に祭司として、預言者として、士師として働く使命を与えた。
サムエルがイスラエルのために多くの働きを担ったのは、それだけサムエルが神様の御心に適った人だったということもあるが、反対に言えば、それだけのことをサムエルが一人で担わなければならなかったほど、民の罪が広がっていたと言える。

サムエルやモーセなど、イスラエルの中に強力なリーダーが出てくる時代というのは、裏を返せば、イスラエル全体が霊的な導きを必要としていたことの表れである。

▶︎ 神様の激しい痛み
イスラエルの中に偉大なリーダーが存在する裏には、神様の激しい痛みがある。
神様は偶像に仕えることを選び、神様のもとから離れていったイスラエルの民の姿に心を痛めておられた。
また、本来、そういう弱い民を導くはずの祭司までもが、神様に仕えることをやめてしまった姿にも心を痛めておられた。
さらには、敵国に支配されて、悩み苦しむイスラエルの姿にも、心を痛めておられた。

この世界の歴史は、常に神様の痛みと共にあったと言ってもよい。
私たちは聖書を読みながら、また普段の生活の中でも、いつも神様の心に目を向けなければならない。
いま世界はコロナで大変なことになっているが、私たちはなぜこんなことが起こってしまったのか、その責任を追求し、根本的な原因を探ろうとする。

こういうことを考えることが全く無意味とは言えないが、それ以上に私たちが思いを巡らすべきことは、いま神様はどのような心でこの世界を見ておられるのか、また、こういう状況の中で、神様は私たちに何を願っておられるのかという「神様の心」ではないか。

いま地上はコロナで大騒ぎになっているが、その中でなんだか神様は沈黙しているようにも見える。
でも本当は、最も激しい痛みを感じておられるのが神様であり、そこには神様の涙があるはずだ。

▶︎ 向きを変えること
神様が沈黙する中で、イスラエルの民は次第に神様を慕い求めるようになっていった。
そこでサムエルはイスラエルに対して、本当に主に立ち帰りたいと願っているのか、そして主に立ち帰りたいのなら「異教の神々を取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕える」ことを求めた。
つまり、イスラエルの民には真実な悔い改めが必要だった。

それを聞いたイスラエルの民は、断食しながら「わたしたちは主に罪を犯しました」と自分たちの罪を告白した。
イスラエルが本当の意味で主に立ち帰るためには、ただ異教の神々を捨てるだけでは不十分だった。
自分たちがこれまで犯してきた罪と向き合い、自分がどれだけ悲惨な状態にあるのかを認めなければならなかった。

聖書が言っている悔い改めとは、向きを変えることである。
神様じゃないものを求め、それに心を注いでいたところから、神様の方へと向きを変えることである。

人間は自分の悲惨さや弱さ、不完全さに気づいて初めて、神様を求めるようになっていく。
心を正しく主に向けるためには、必ず罪の悔い改めを通らなければならない。
その時に、自分は神様がいなければどうしようもない存在であることに気付き、神様の方へと向きを変えて歩み始めることができるのである。

「何をするのか」という行動に対する計画や情熱以上に、私たちには「どこを向いているか」という心の方向が問われている。