昨日は男性陣にとって待ちに待ったバレンタインデーでしたが、このバレンタインデーに関して最近話題になっているのが「義理チョコ問題」です。
昨今、いろんな分野でパワハラが声高に叫ばれる中で、義理チョコも「パワハラだ」とか「廃止すべきだ」というネガティブな声が聞かれるようになってきました。
そんな中、社内で義理チョコを禁止したり、義理チョコの代わりに社員から任意で500円を集めて、それを慈善団体に寄付するなどの面白い試みも行われています。
そもそも女性から男性に対してチョコレートを贈る日として、バレンタインデーが日本で流行し始めたのは、1950年代のことです。
その後、1980年代後半に、義理チョコが日本独自の文化として普及していったと考えられています。
「誰得?」と言われている義理チョコ文化において、それを嫌っている多くは会社勤めのOLさんたちです。
チョコの数が不公平にならないように、事前に女性社員によって打ち合わせをして、誰が誰に渡すかを決めることもあるそうなので、確かにとてもめんどくさいことに関わることになります。
普段さほど関わりがなかったり、これっぽっちも好意がない人に対して、貴重な時間を割いてチョコを選び、お金を犠牲することを煩わしく思う気持ちもごく自然です。
やらない理由について考えれば、今すぐにでも廃止することもできますが、ここではあえて「その意義」ついて聖書から考えてみたいと思います。
義理が混じった時点で、そのチョコには「愛」がなくなるのでしょうか?
「愛」と「義理」は水と油のように、決して相容れない概念なのでしょうか?
愛の中にほんの少しでも義理が入った時点で、その愛は本物ではないと考えるかもしれません。
愛とはもっと純粋で、混じり気のないものだと。
ところが、聖書が伝える愛というのは義理や義務という不純さを通って初めて、健全で深い愛へと精錬されると言うのです。
「敵を愛しなさい」という有名な聖書の言葉があります。
ここでいう敵というのは、争っている人というだけではなく、単純に好きじゃない人のことです。
敵を愛することなんて絶対に無理だと考えるかもしれませんが、もっと難しいことは敵を「好きになること」です。
嫌いな敵を好きになるというのは、論理が破綻しています。
そもそも嫌いな人に対して、好きという感情を抱くことはできません。
「嫌い」と「好き」は正反対の感情です。
だからこそ、敵を「好きになりなさい」ではなく「愛しなさい」なのです。
「好きになる」というのは「感情」の次元の話であり、「愛する」というのは意志と行動の領域のことです。
つまり「敵を愛しなさい」という言葉は「感情的に好きにならなくとも、愛する行動を取りなさい」という意味の言葉なのです。
ここから義理チョコに話を戻して考えてみると、チョコの中に義理が混じっているとしても、そのチョコは決してドライで冷たいものではなく、むしろ愛の片鱗が存在しているのです。
あげたくもない人に大変な思いをして、めんどくさいことをすることは、不純で意味のないことではありません。
愛の深さで言えば、義理チョコは本命チョコに勝るとも劣らないのです…!
日本にはお歳暮やお中元、年賀状など贈り物文化があります。
その中の一環として生まれたのが、義理チョコ文化ではないでしょうか。
最近は、この贈り物文化を煩わしく思う人が増え、今後は消滅の方向に向かっていくように思いますが、「少しでも義務感があるのなら、やるべきではない」と考えるのは、あまりにも短絡的な気がします。
職場の人間関係や精神に支障をきたすまでして、義理チョコ文化を守る必要はないと思いますが、そこに含まれている意義を考えてみると、一概に否定するものでもないと思うのです。
男性にちょっとした喜びを与えてくれる2/14のチョコレート、来年こそ複数個いただけるように今から切に祈りながら待ちたいと思います。