クリスマスを前にして、渋谷で2年ぶりに「クリスマス粉砕デモ」が行われたそうです。
「リア充爆発しろ!」クリスマス粉砕デモ、渋谷で2年ぶり実施 「今年も我々の勝利だ」と手応え感じる(2019年12月21日 livedoor Newsより)
「リア充は爆発しろ」
「カップルは自己批判せよ」
などのシュプレヒコールをあげながら、日本の商業主義的クリスマスを批判しました。
クリスマスを楽しく迎える人とクリスマスの粉砕を目指す人たちは、クリスマスの光と影を表しているようです。
デモ隊が批判しているように、本来、クリスマスという祝日は、恋人と過ごしたり、家族と過ごすために設けられたものではありません。
「Christ(キリスト)」と「mass(礼拝)」が合わさって「Christmas」であるように、イエスキリストの誕生を覚え、キリストを礼拝するための祝祭日です。
クリスマスというと、多くの人が恋人の存在を思い浮かべるように、日本のクリスマスはあまりにも恋愛至上主義的になりすぎた感があります。
そうすると、恋人がいない人にとっては、クリスマスは自分の惨めさを映し出すものでしかなく「クリスマスなんて粉砕されてしまえ」という思いもよく理解できます。
クリスマスにあるのは、ただ辛く悲しい現実でしかありません。
実は、イエスキリストが誕生したというクリスマスの物語は、一面では、辛く悲しいこの世の現実を表しています。
当時、ローマ皇帝によって住民登録の命令が下され、すでにイエスを身ごもっていたマリアは、遠く離れたベツレヘムという街まで行かなければなりませんでした。
道路もまともに舗装されていない当時、妊婦が長距離を移動することは、たやすいことではありません。
結果的にマリアは、移動先のベツレヘムで産気づき、我が子の誕生を家畜小屋で迎えなければなりませんでした。
イエスの両親であるヨセフとマリアは、不衛生な家畜小屋の飼い葉桶に我が子を寝かすしかないという、この世の辛く悲しい現実に直面していたのです。
社会を暗くしていたのは、神様を見失い、自分がよければそれでいいという価値観に染まってしまった人間たちでした。
しかし、その辛く悲しい現実の中でイエスキリストは生まれてきました。
ヨセフとマリア、また、生まれたばかりのイエスを訪れた博士や羊飼いたちは、もはや暗闇の中にはいませんでした。
イエスキリストという光のもとに置かれていたからです。
私たちにとって本当の光というのは、恋人がいることや、社会的に高いスペックを持っていることではありません。
自分自身が光として存在しているのではなく、イエスキリストという光を持っていることです。
人はいろんな暗闇を作り出します。
その暗闇の中に追いやられて、嘆き苦しむことがあるのが、この社会の辛く悲しい現実です。
しかし、クリスマスが伝えていることは、人間が作り出した暗闇の中に、イエスキリストが光として存在しているという事実です。
イエスキリストという光こそ、暗闇の中を歩むためにすべての人に与えられた、真の光なのです。