因果応報的思考
当時のユダヤでは、体に障害のある人は、物乞いとして生きていくしかありませんでした。
障害のある人は、仕事に就くことができなかったので、毎日、家族によって人通りの多いところに連れて行かれて、そこで物乞いをしながら過ごしました。
それが、当時、障害を持った人が生きていくための唯一の道でした。
その日、生まれつき目の見えない人は、いつものように道端で物乞いをしていました。
そこに、イエスと弟子たちが通りかかりました。
弟子たちは、目の見えない人を見て、イエスにこのように聞きました。
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)
弟子たちは、その人を見ながら、なぜ目が見えないのか、その原因は何なのかイエスに聞きました。
当時のユダヤでは、病気や体の障害があるのは、罪のせいだと考えられていました。
特に、生まれつき何か障害を抱えている人は、周りからは「罪の中に生まれた者」というレッテルを貼られました。
こういう考えは、因果応報と言われます。
何か原因があって、結果があるという考え方です。
よく子供の絵本なんかを見ていると、さるかに合戦とか、おむすびころりんとか、因果応報的な物語がたくさんあります。
悪いことをしたら、ばちがあたるというものです。
弟子たちは、こういう考えに基づいて、生まれつき目が見えないことについて、それは罪のせいだと考えました。
原因を突き止めることは、過去を分析すること。
「なぜ」というのは、過去に目を向けることです。
私たちも、自分が負っている苦しみやこの世界で起こっていることを見ながら「なぜこんな苦しみに遭わなければならないのか?」とか「なぜこんな悲惨なことが起こってしまうのか?」と問いかけることがあると思います。
なぜと問いかけながら、原因について考えます。
原因がよくわからないことというのは、受け止めることが辛いからです。
少しでも原因を知ることによって、納得したいという思いがあるのでしょう。
過去から未来へと
それでは、イエスは弟子たちの問いかけに対してなんと答えたでしょうか?
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)
イエスは目が見えないことについて、罪の結果だとは考えていませんでした。
そうではなく「神の業がこの人に現れるためだ」と言われました。
旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブに不幸なことがたくさん起こります。
全財産を失い、家族が亡くなり、ヨブの体にも腫れ物ができて苦しみます。
ヨブはなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと、悩み苦しみました。
そこに友人たちがやってきて、原因についてあれこれ語り始めます。
お前が何か悪いことをしたのではないか、親か先祖のせいじゃないか、亡くなった子供たちが何か大きな罪を犯したのではないか、と。
ただ、ヨブはどの話も納得できずに、ますます苦しみは増していきました。
それでヨブは、なぜ正しく生きている自分がこんな苦しみを負わなければならないのか、神様と直接、議論をします。
最終的にヨブは、神の前に悔い改めてこの物語は終わります。
ヨブ記が示しているように、人生の中で起こる苦難や不条理なことに対して、いつも明確な答えがあるわけではありません。
ヨブの身に起こったように、この世界にはむしろ、原因を特定できないことの方が多いかもしれません。
もちろん、物事の原因を考えること自体が悪いとか無意味というわけではありません。
ただ、生まれつき目が見えないことについて、誰の罪が原因であるのかを突き止めたところで、目が見えない苦しみが取り去られるわけではありません。
目が見えないのは、あなたのこういう罪が原因ですと言われたとしたら、もっと自分を責めることになるでしょうし、親の罪が原因だとしたら、親を恨むようになるでしょう。
そもそも、目が見えないことについて、誰の罪が原因であるのか、本人を目の前にして話すこと自体、とても失礼なことです。
しかし、2000年前のユダヤではそういうことが普通に行われていたのです。
これに対して、イエスは目が見えないことについて「神の業が現れるためだ」と答えました。
イエスは「なぜ」ではなく「何のために」という視点で見ておられた。
過去に目を向けるのではなく、未来に目を向けたのです。
確かに、過去に目を向けて、過去と向き合うことはとても大切なことです。
過去のあらゆる積み重ねによって、今の自分があるので、過去を無視することはできません。
ただ、それと同時に、私たちは過去に縛られる必要はありません。
なぜなら、私たちは過去を土台にして、未来に向けて生きていく存在だからです。
キリスト教というのは、未来志向の宗教です。
神様が完成される世界を目指して、今を生きていくのが信仰なのです。
ある一つの証し
今日の聖書の言葉を通して、自分の人生について問い直すことができたというある牧師のエピソードを紹介します。
青木勝さんという目の見えない牧師の方がおられました。
青木先生は、医者を目指して大学の医学部で学んでいたが、医者になる直前、病院で研修生として働いていた時に、突然、失明してしまったそうです。
青木先生は毎日「なぜ自分だけがこんな苦しい目に遭わなければならないのか、これからどうやって生きていけばいいのか、生きていく意味があるのか」と問い続け、自殺することしか考えられなかったそうです。
当時、青木先生の弟が教会に通っていて、牧師が訪ねてきて、病室に一冊の本を置いて行きました。
その本には、自分と同じように、ある時に失明した人の証しが書かれていて、今日のヨハネによる福音書の箇所が引用されていました。
青木先生は「神の御業が現れるためだ」という言葉を聞いた時、今までなぜ見えなくなったのかという問いに対して、初めて答えを与えられた気がしたそうです。
「もしそれが本当であれば、生きていきたい。生きなければならない」と青木先生は思ったそうです。
そして「本当に神様が愛してくれているなら、その証拠を見せて欲しい。この目を見えるようにして、医者にならせてほしい」と思いました。
ある時、病室で母親が泣きながら、言った言葉があったそうです。
「あなたがわがままを言ったから、それが辛くて、泣いているのではないのよ。今まで、新聞でも何でも、自由に読んでいたあなたの、その不自由さを思うと辛くてね。できるなら、私の両方の目をあなたにあげたい。それで、あなたが見えるようになって、医者になれるなら、私は一生、どこにも行けずに座ったままでいても、幸せなのに」
この言葉は、青木先生の心に、深く突き刺さりました。
自分のために「私の目をあげたい」と言って泣く母親の愛に心を打たれたのです。
その時、青木先生は、こう思ったそうです。
「イエスは、両方の目だけでなく、手も足も命までも、自分に差し出してくださったのだ」
この時、心の目が開け、イエスを見ることができました。
視力を失った青木先生が、心の目でイエスを見ることができた瞬間でした。
青木先生はその後、教会へと導かれ、自分にできる神の御業とは何であるのかを問い続けました。
その中で、自分は肉体の病を癒す医者から、心の病を癒す医者への道へと神様が招いておられるのではないかと示され、神学校へと進み、牧師になられたそうです。
すでに始まっている神の業
この「神の業が現れるためだ」という御言葉に関して、もう一つ別の話があります。
青木先生のように、若くして視力を失ってしまった人がいました。
色々と悩んだ末に、ある教会を訪れました。
そうすると、対応してくれた人が早速聖書を持ち出して、今日のヨハネによる福音書の9章の話をし始めました。
そしてその人は、本人が罪を犯した殻でも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであるという言葉を伝えました。
のちに、その青年は信仰を得て、クリスチャンになりました。
しかし、その時の出来事について「あんなに腹が立ったことはない」と思ったそうです
なぜなら、これから先どうやって生きていくのか悩んだ末に、やっと教会に辿り着いたのに、その辛い気持ちを聞くこともなく、聖書の言葉によって一瞬で片付けられてしまったことに怒りを感じたからです。
これは2000年前、弟子たちが目の見えない人の前で誰の罪が原因なのかを議論しようとしたことと同じようなことだと言えます。
悩み苦しんでいる人を前にして、その人の苦しみについてあまりにも無感覚だったということです。
私たちはイエスがやったことや語ったことについて、イエスと同じ立場に立って、誰かに教えることはできません。
私はイエスではないからです。
だから、障害を持っている人に対して「それは神の業が現れるためなんだよ」と言うことは絶対に言うことはできません。
私たちに必要なことは、メシアであるイエスへの信仰です。
障害を持っている人がいれば、何かに苦しみ続けている人がいれば、その人の人生に神の業が現れることを祈ること、またそのために必要な支えや励ましをすることがイエスへの信仰でしょう。
私たちの人生の中でも、すでに神様の業は始まっています。
イエスを信じた時から、いや、2000年前から、すでに始まっていたのでしょう。
これから私たちの人生の中で、神様はどのように働いてくださるでしょうか?
神の業が現されることを切に祈りつつ、生きていくことを願います。



