未来に対する関心
これは、ユダヤのエルサレムにある神殿の前での出来事です。
ある人たちがエルサレムの神殿について話していた時、イエスは彼らの話を聞きながら、神殿について、こう予告されました。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(6節)
当時あったエルサレムの神殿は、その時ユダヤを治めていたヘロデという王様によって改修と増築が進められていました。
ヘロデ王は、紀元前20年頃から工事を始め、イエスの時代は、まだ改築中でしたが、神殿の外見はほとんど出来上がっていたようです。
外側は金箔で覆われていて、白い大理石が贅沢に用いられ、きらびやかで相当に豪華絢爛な装いでした。
イエスは目の前の神殿を見ながら「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と神殿が破壊されることを予告されました。
神殿が完成するまで、イエスの時代からさらに40年の月日を要することになりますが、それから30年ほどが経った紀元70年に、イエスが言った通り、エルサレム神殿はローマ軍によって焼き払われ、完全に破壊される時が来ます。
人々は、改築中の神殿を見ながら、まさか崩れ去ることなど考えもしなかったと思います。
エルサレムの誇りであり、ユダヤ人の誇りである神殿が未来永劫続くと考えたでしょう。
それで人々は、神殿の破壊を予告するイエスに、いつ起こるのか、どんな予兆があるのかと尋ねたのです。
このやりとりを見ると、人間は、未来について強い関心を抱いていることがわかります。
以前、テレビで、世界の恋愛事情を特集している番組を見ました。
インドの話題についてやっている時、インドのヒンドゥー教徒たちの家に赤ちゃんが生まれると、まずお寺の僧侶のところに行って、占星術によって子供のことを占ってもらうそうです。
その時、僧侶はその赤ちゃんの人生全てのことを占います。
いつ結婚するべきなのか、相手はどういう人がいいのか、いつ悪いことが起こるのか、いつ死ぬのかなど、すべて僧侶が占いで教えてくれます。
ヒンドゥー教徒にとっては、人生を占い通りに生きることが幸せになる道だそうです。
私たち人間には、未来というまだ見ぬ未知の世界について、そこでどんなことが起こるのか、できれば予め知っておきたいという願望があるように思います。
だからこそ、古くから時代や場所を問わず、占いという文化が生まれ、いろんな形に発展してきた歴史があるのでしょう。
惑わされないように気をつけなさい
イエスは神殿が破壊される時期とそのしるしについて人々から聞かれた時、直接その質問には答えませんでした。
人々の質問をあえてスルーして、イエスは別の話を始めます。
8〜9節でイエスが語っていることは、世の終わりについてです。
世の終わりが近づくと、イエスの名前を名乗るいわゆる偽キリスト、偽メシアが大勢現れ、何かの時やしるしについて語り出したり、また、戦争や暴動などが起こります。
しかし、そういう人々の話に惑わされたり、怯えたりしないように、イエスは警告されました。
ここでイエスが伝えようとしているメッセージはなんでしょうか?
それは世の終わりに何が起こるのかということではありません。
イエスのメッセージの核心は、はじめに語っている言葉「惑わされないように気をつけなさい」ということです。
本当に大事なことは、いつ何が起こるのかということではありません。
聖書もいつ何が起こるかということについては、ほとんど語っていません。
そうだとすれば、大切なことは、未来について正確に予知することではありません。
実際に、もし私たちの未来において、悪いことが起こるとします。
例えば、大怪我をするという未来があったとして、その未来はもう決まっているものなので、変えられないとします。
仮に、何月何日何時何分に階段から落ちて、複雑骨折をするという未来があったとして、そのことをあらかじめ予知しているとしましょう。
その日、その時間が近づき、ついに、実際に大怪我をしました。
その時、私たちの心はどうでしょうか?
そうなることはわかっていたことなので、別に平気でしょうか?
そうではありません。
知っていても知らなくても、最悪な出来事に変わりありません。
体は痛いし、仕事はどうするか、お金もかかる、一通り落ち込むでしょう。
あらかじめ知っていたからといって、それでショックが軽減されるわけではありません。
なぜなら、自分の身に振りかかったことそれ自体が問題だからです。
イエスは「惑わされないように気をつけなさい」と言われました。
世の終わりには予期せぬこと、誰も想像してなかったようなことが起こります。
その時に、その目の前のことに惑わされることなく、今ある現実にどう立ち向かうのか、どう立ち振る舞うのか、その姿勢が問われているわけです。
結局、人間が本当に願っていることは、未来に何が起こるのかということではないと思います。
私たちは単に、未来に対する安心感を持ちたいのです。
シンプルに、前向きな気持ちで、幸せな人生を歩みたいのです。
人間が占いによって未来を知ろうとするのは、未来に対して希望を持ちたいからであり、それは裏を返せば、前向きに生きたいという人間の気持ちや期待から生まれたものだと思います。
完成する世界の中で
私たちの人生においては、良いことも、悪いこともいろんなことが起こります。
目の前の現実をどう受け止め、どう対処していくのか、ということの連続です。
その時に私たちが問われていることは何でしょうか?
それは、私たち自身のあり方なのでしょう。
「今をどう生きるのか」ということです。
これについて私たちが考えるために、世の終わりについて知っておく必要があるのです。
聖書では、イエスが再びこの地に来られること、すなわち再臨についての約束があります。
ただ再臨について、それがいつ起こるのかについて、具体的なことはわかりません。
再臨の時期について、聖書で言われていることは「それは盗人が来るようにして来る」ということです。
ある時突然、予期せぬ時に起こるのが再臨です。
本文の9節で、イエスは「世の終わりはすぐには来ないからである」と言っています。
この言葉には大きく二つの意味を読み取ることができます。
一つは、文字通りに「世の終わりはすぐには来ない。前兆やしるしを見て、再臨の時期を見極めることはできない」ということです。
また、もう一つは「すぐには来ない」ということを考えれば、その反対派「必ずいつかはやって来る」ということです。
聖書は、この世界には終わりがあると言っています。
その終わりはイエスの再臨によってもたらされることになります。
普通、終わりという言葉を聞くと、破滅とか絶望をイメージすると思います。
しかし、聖書で言う終わりは、破滅や絶望を意味する終わりではありません。
「あぁもう人生終わった」という終わりではなく、ジグソーパズルが出来上がった時のような完成という意味での終わりです。
イエスの再臨は、完成の時なのです。
確かに、私たちの目には、この世界はどんどん悪くなっているように見えることもあります。
しかし、聖書が明らかにしている神様の計画は、世界を破滅させることではなく、イエスの再臨によって、天と地を新しくすることです。
これが、この世の終わりに起こる完成という未来なのです。
私たちは完成するという終わりから逆算して、今を生きていくことができます。
豪華絢爛な神殿を見ながら、これが未来永劫に続くと信じた人々のように、自分の目に映るものに希望おいて生きていくのか、目に見えない神様とイエスの再臨を信じ、完成する未来に希望によって、目に見える現実に向き合っていくのか、私たちは今、問われているのです。



