不正に不正を重ねる悪徳管理人
これは「不正な管理人のたとえ」と言われる箇所です。
この箇所は聖書の中でも、特に解釈が難しいところです。
というのは、イエスが不正な行為を肯定しているように読めるからです。
このたとえに出てくる管理人というのは、ある金持ちの主人に雇われて、おそらく農地や農作物の管理の仕事を任せられていたという設定でしょう。
物語の内容から、奴隷の身分であることが想定されますが、この奴隷は、ビジネスの世界で主人の代理人として責任ある地位にあったようです。
しかし、ある時、この管理人が主人の財産を無駄遣いしているという告発がありました。
それで主人は管理人を呼び出して、会計の報告を出すように言い、その報告をもって管理人は解雇されることになりました。
ただ、この管理人はそのままでは終わりませんでした。
管理人は考えました。
「自分がやったことはもう隠せないし、クビになるのは時間の問題だ。ただ、土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、今のうちに借りを作っておいて後でたすけて貰えばいいんだ」
「土を掘る」というのは、奴隷の仕事の中で最も過酷な肉体労働ですが、それができないなら、物乞いになるしかありませんでしたが、それもプライドが許しませんでした。
色々と考えた挙句、名案を思いつきます。
クビになっても、自分のことを家に迎えてくれるような者たちを作ろうと考えました。
今のうちに恩を売っておけば、自分が困った時に助けてもらえると考えたのです。
それで管理人は、主人に借りのある者たちを呼んで、借用証書を書き換えることにしました。
『油百バトス』の借りがある者に対しては、半分の五十バトスにしてあげました。
これは今の価値で言えば、1000万円を500万円にしてあげたということになります。
また、小麦百コロスの借りがある者に対しては、八十コロスと証文を書き換えさせました。
これは2500万円の借金を2000万円にしてあげたということです。
管理人は2人に対して、負債500万円を減額してあげました。
管理人と債権者たちのやり取りをよく見ると、管理人は借用証書を書き換える時「書き直しなさい」と言っているように、相手に書き換えさせています。
自らの手をなるべく汚さないようにして、この悪事を働いているところにも、管理人の狡猾さが見て取れます。
このように、管理人は、主人の財産を不正に利用していることがバレた時、自らの立場を利用して、不正の上にさらに不正を重ねました。
この話を聞いていた人々は、おそらく、この後の展開をこのように予想していたでしょう。
管理人が借用証書を書き換えさせたことが主人にバレるのは時間の問題で、最終的に厳しい裁きを受け、管理人は物乞いとして生きていくことになるんだろうな、と。
そうやって悪事を働くのであれば、それはいつか必ず明らかになり、その責任を問われることになるという話だろう、と。
この話を神様との関わりで考えれば、神様の前に全てのことは明らかであり、犯した罪に対しては必ず裁きを受けなければならない。
こういう教訓の話だろうと、人々は想像しながらイエスの話を聞いていたのだと思います。
ただ、人々の予想に反して、この話は急展開を迎えます。
主人は管理人がさらに不正を働いたことを知ることになりましたが、なんとその時、主人は管理人の不正を何ら咎めることなく、むしろ、そのやり方を褒めたのです。
そして、このたとえの結論として、イエスは「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言って、話を締めくくりました。
一体、この話を通してイエスは何を伝えようとしているのでしょうか?
猟奇的な主人の正体
この話からよくこういうメッセージを聞くことがあります。
「イエスが褒めたのは不正そのものではなく、抜け目のないやり方である。管理人は、自分が置かれた状況を見極め、自らの危機を乗り切るために何をすべきかよく考え、判断し、行動した。確かに、動機や方法は褒められたものではないかもしれないが、自分の将来のために行動することの大切さを伝えようとしているのだ。8節に『この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあるように、世の子らである神様を知らない人が賢く生きているように、光の子らである信仰者も世の終わりを見据えて、今という時を見極め、賢く生きるべきだ。」
このようなメッセージが語られることがよくあります。
ただ、この解釈は何か違和感を拭い得ません。
やはりイエスが不正を働くことを容認している部分には言及されておらず、何かスッキリしません。
不正行為に目を瞑って、やり方だけを褒めるということがあり得るのでしょうか?
もし本当に、賢く生きることを伝えたかったのであれば、なぜわざわざ不正行為を題材に選んだのでしょうか?
これから話すことは、もちろん一つの解釈に過ぎませんが、今日のたとえ話の前後の流れに注目してみましょう。
この福音書を書いたルカは、福音書全体を通して「悔い改め」を強調しています。
先週メッセージした見失った羊と失くした銀貨の話も悔い改めの話だし、放蕩息子の話もそうです。
もともといた主人のもとから、何かしらの理由で離れてしまったが、また戻ってくるというたとえをしながら、神様は人々がもう一度、主人である神様のもとに戻ってくることを待っているという話が、15章から続いています。
その中でも特に、放蕩息子の話と今日の不正な管理人のたとえは、よく似ています。
ある父親の息子の一人が、父親が生きているうちに将来もらうことになっている財産が欲しいと言って、財産を譲り受けて、一人、遠い国に旅立ちます。
そこでやりたい放題やった結果、財産を全て使い果たしてしまい、命の危機に直面します。
すべて自業自得のことでしたが、その時息子は「もう雇い人としてでもいいから家に戻ろう」と決意し、実家に帰ることにします。
父親から拒絶されても仕方のない状況でしたが、父親は息子を熱烈に歓迎し、祝宴まで開いて受け入れました。
この放蕩息子と同じように、今日の管理人も、主人の財産を不正に流用してしまったことで、危機を迎えます。
その時、クビになった後のことを考えて、帳簿を改ざんするという不正を働きましたが、主人はその不正行為を罰するどころか、むしろ賞賛しました。
この2つの話はどちらとも、主人の信頼を裏切るようなことをしてしまったのに、主人がそれを赦してくれて、受け入れてくれたという話です。
自分が犯してしまった罪や過ちの責任を追及されることなく、ただ主人の情けによって受け入れられています。
このように、直前の放蕩息子の話を踏まえて考えると、不正な管理人のたとえに出てくる主人は神様だと考えることができます。
そうだとすれば、管理人の不正を赦した主人のように、神様は、私たちの罪を赦し、受け入れてくれるお方であるというメッセージとして受け取ることができるのです。
罪を赦すという不正行為
もし神様が、完璧主義で道徳倫理的なことにとても厳しい神様だとしたら、放蕩息子の話も、不正な管理人の話も全く成り立たなくなってしまいます。
24時間私たちを監視して、少しでも過ちを犯したら、その責任を追及し、処罰してくる神様だとしたら、私たちは神様の前で何も言えなくなってしまいます。
私たちの間違いや過ちなど、粗探しをして、私たち人間が地獄に行くべき罪人であるから、私を信じなさいという神様であるならば、誰もそんな神様は信じたいとは思わないでしょう。
当時のユダヤにおいて、罪を赦すということはある意味で不正行為でした。
罪は裁かれなければならず、罪は代価を要求します。
しかし、神様はその裁きを自ら受けてくださいました。
十字架によって、罪の代価を私たちに代わり、しかも完全に払ってくださったのです。
不正を働いた管理人の主人は、管理人が不正を重ねたことを責めませんでした。
裁くべき正当な理由を並べて、相手を否定するのではなく、ただ管理人の抜け目のないやり方を褒めました。
同じように、神様は私たちに対して、裁くべき正当な理由を並べて、私たちの存在を否定しにかかるのではなく、私という存在を肯定的に見てくださるお方です。
私たちの悪い部分に注目するのではなく、良い部分を見つけて褒めてくださり、私をそのまま肯定してくださるのが、主なる神様なのです。



