働き者のマルタと怠け者のマリア?
これはイエスがベタニアという村に入った時の出来事です。
ベタニアという村には、イエスが御言葉を伝えるために、場所を提供してくれる一つの家があったようです。
それが、マルタとマリアという姉妹の家です。
イエスご一行様が村にやってきた時、2人のうち、マルタが外まで出て行き、イエスを家に迎え入れました。
イエスが村に来たということで、マルタとマリアの家には、イエスの言葉を聞こうと、村中から大勢の人々が押し寄せてきていたことでしょう。
40節に「いろいろのもてなしのため」とあるように、場所をセッティングしたり、食事の準備をしたり、やるべきことは多かったと思います。
特に当時は、そういう仕事は、女性がやるべき事だとみなされていたので、尚更のことだったでしょう。
そのため、マルタは家主として、イエスだけではなく、一緒に来ていた弟子たち、さらには、家に集まってきた村の人々をもてなすために、せわしく働きました。
その一方で、マリアは何をしていたのでしょうか?
イエスが村に来られた時、マリアは家の中にいました。
そして、イエスが話し始めると、マリアはイエスの足元に座って、その話に耳を傾けていました。
この二人の姿を見ると、とても対照的です。
働き者のマルタと、怠け者のマリアとでも言うでしょうか。
マルタはそこにいた人々のために、一生懸命に働きました。
マルタがいたからこそ、その場が整えられ、イエスも落ち着いて話をすることができたのだと思います。
マルタは必要なことを察知し、家主としての責任を果たしました。
しかし、マリアの方はというと、ただイエスの話を聞いてばかりで、何も動こうとしませんでした。
それでマルタは次第に、マリアに対して苛立ちを感じ始めました。
ついには、イエスにその不満をぶちまけます。
マルタが言っていることは最もです。
マリアも家主として、マルタと一緒に人々のために働くべきでした。
しかし、イエスの見方は違ったようです。
イエスは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)と言われたのです。
イエスは、二人のうち良い方を選んだのはマリアであり、マリアの方が必要なことをしたと言われました。
これはどういうことでしょうか?
また、イエスが言われた「ただ一つの必要なこと」とは何のことでしょうか?
なんとか思ってほしい
マルタにとって、イエスのために働くことは、ただの労苦ではなかったと思います。
イエスやその周りの人々をもてなすことは、マルタにとって、すべてイエスに仕える働きだからです。
だからこそ、マルタは誰から言われるわけではなく、自ら進んで人々のために働いたのです。
おそらくこの時、マルタは自分一人で大変な思いをしながらも、同時に、イエスのために用いられる喜びも感じていたと思います。
ところが、次第にマルタの心に変化が生じてきました。
マルタは、マリアのことが気にかかり始めたのです。
マリアはずっとイエスの足元に座り、イエスの話に聞き入っていました。
マルタは、自分ばかりに働かせて、何も動こうとしないマリアに苛立ちを感じ、その思いをイエスにぶつけました。
このマルタの言動の中に、一つ不自然なところがあります。
マルタは「自分一人では大変なので、マリアに手伝ってくれるようにおっしゃってくれませんか」と、イエスにお願いをしている。
手伝ってほしいというのであれば、マルタは直接マリアに向かって言うべきでしょう。
「マリア、わたし一人ではさすがに大変だから、一緒に手伝ってくれない?」と。
しかし、マルタはイエスの話を遮ってまでして、イエスに向かって話しました。
この時のマルタは、どのような心だったのでしょうか?
40節を見てみると、マルタはイエスに「何ともお思いになりませんか」と言っています。
「何ともお思いになりませんか」というのは、言い換えれば「何とか思ってください」ということです。
マルタは、自分一人だけが働いていることを、イエスに何とか思って欲しかったのだと思います。
この時イエスは、家の中に集まっている人々に向かって話をしていました。
そのため、イエスの視線は、当然、その話を聞いている人々の方に向いているわけです。
その中には、マリアもいます。
そのためマルタは、自分一人だけが、イエスの視界の外にいるように感じられたと思います。
おそらく、マルタの中には「なんで誰も(イエスさえも)私のことを気にかけてくれないのか」という心があったのだと思います。
それで、イエスの話を遮ってまでして、自分の思いを伝えたのでしょう。
イエスのあたたかい目線
はじめマルタは、村にやってきたイエスを喜んで迎え、また、集まってきた人々のために、喜んでもてなしをしていたと思います。
しかし、一生懸命に働いている自分のことを、誰も気にかけてくれないことがわかった瞬間、マリアの心から喜びが失われていきました。
こういうマルタの心はよく理解できます。
「なんで自分だけが? なんで誰も気にかけてくれないの? こっちが言う前に自分から動いてほしい」
私たちもこのように感じたことがあることでしょう。
それでは、この時イエスはマルタのことをどのように見ておられたのでしょうか?
マルタの話を聞いて、イエスは「マルタ、マルタ」と二度、マルタの名前を呼びました。
2度続けて名前を呼ぶことは、ユダヤでは、親愛の心を込めた表現です。
イエスが大勢の人に向かって話をしていた時、イエスは、1人、もてなしをしているマルタのことを気にかけていなかったのではありません。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とイエスが言われたように、イエスはマルタがやっていること、マルタが感じていることをよく知っておられました。
マルタは「イエスさえも自分のことを気にかけてくれない」と感じていたかもしれませんが、実際は、イエスが誰よりもマルタのことを気にかけておられました。
イエスの視線の外にいる人は、誰もいません。
どんな時でもイエスは、私たちのことを見ておられ、私たちの思いを受け止めてくださいます。
私たちはいつも、イエスの温かい目線の中にあるのです。
こういうことを踏まえた上で、イエスがその後にマルタに言われた言葉を聞く必要があります。
イエスは「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)と言われました。
イエスが言われた「ただ一つの必要なこと」とは何のことでしょうか?
それは、人々にとって必要なことではなく、この時のマルタにとって必要なことという意味だったのだと思います。
人々にとって必要なことは、もてなすことであり、仕えることでした。
そう思ってマルタは動きました。
ただ、マルタ自身にとって必要なことは、そうではありませんでした。
この時、本当にマルタにとって本当に必要だったことは何だったのでしょうか?
それはマリアが選んだこと、つまり、イエスの言葉に耳を傾けることでした。
イエスが語っている言葉を聞くことです。
イエスと共に
おそらく、ここでイエスがマルタに伝えたかったことは、こういうことだったと想像します。
「わたしのために何かをすること、誰かのために何かをすること、それ必要なことであり、素晴らしいことだよ。ただ、今のマルタに本当にたった一つだけ必要なことを選ぶとしたら、それはマルタ、あなた自身のためにすることだよ。誰かために何かをする前に、マルタ、あなた自身のために私の言葉に耳を傾けてほしい。」
「イエスのために、人々のために」という思いを持って、仕えることはとても素晴らしいことです。
聖書は「隣人に仕える」ということを大切な精神の一つとして教えています。
この場面でイエスは、仕えること、働くことを否定したかったわけではないでしょう。
ただ、良い動機で始めたにもかかわらず、そこに喜びがないとか、何か心が騒ぐことがあるとしたら、一旦立ち止まって、自分自身がやっていることを見直してみる必要があると思います。
「誰かのために」という強い思いは、時に「自分のために」本当に必要なものを見失ってしまうことがあるからです。
この話は、イエスとの関係において、一番に必要なことが何であるのかを教えているのだと思います。
神様は私たちに対して「私のために働き、捧げなさい」と私たちが犠牲することを求めておられるのでしょうか?
私たちが神様のために犠牲するのではなく、神様が私たちのために犠牲してくださったことを知るべきでしょう。
父なる神様はイエスをこの地に送り、イエスが十字架において、私たちのために全てを捧げてくださいました。
本来、私たちが神様のために捧げるべきものというのはないのです。
イエスが全てを捧げてくださったからです。
自己犠牲というのは素晴らしいことですが、これは神様の犠牲の上に初めて成り立つものです。
「イエスのために」「誰かのために」何かをする前に、イエスが私たちのために何をしてくださったのかということが、私たちの信仰の土台です。
その土台なく、ただ誰かのために、自分を犠牲するのであれば、その働きが長続きすることは難しいでしょう。
だから、私たちが持つべき意識は「イエスのために」ではなく「イエスと共に」なのだと思います。
これが私たちの生きる道です。



