牧師ブログ

「SEKAI NO OWARI」

【マルコによる福音書13:1-8】

1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

ユダヤ人にとっての神殿

マルコによる福音書の13章は、初めから終わりまで、終末に関する話が記されています。
終末というのは「この世界の終わり」のことで、聖書はこの世界は、いつか終わりの日が来ることを教えています。

イエスが終末について話し始めるきっかけとなったのは、弟子の一人が神殿の素晴らしさを語ったことにあります。
イエスが神殿を出ていく時、ある弟子が「先生、見てください、なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と、神殿の素晴らしさを語りました。

神殿というのはユダヤ教徒が献げ物を捧げたり、祈りを捧げたりするところで、ユダヤ教において最も神聖な建物です。
ユダヤ教徒にとって、信仰と礼拝の中心地が神殿でした。

エルサレム神殿は歴史の中で何度か建て直されてきました。
イエスの時代の神殿は、第二神殿と言われるもので、当時、ユダヤを治めていたヘロデ大王が改修して建て直したものでした。

第一神殿は、旧約時代、ソロモン王によって建てられたものですが、バビロン捕囚の時に完全に破壊されてしまいました。
その後、バビロンから解放されてイスラエルに戻った人々によって再建されたのが第二神殿ですが、この神殿は、ソロモンが建てた神殿と比べると、スケールが小さいものでした。

ヘロデ大王は、ユダヤ人の支持を集めるためだったり、自分の名を残そうという理由で、第二神殿をソロモンの神殿の2倍もの規模に改築しました。
イエスの時代は、まだ改築中でしたが、神殿の外見はほとんど出来上がっていました。
神殿の全面は金箔で覆われていて、白い大理石が贅沢に使われ、相当に豪華なものだったようです。

当時のユダヤ人にとって、神殿が臨在される場所であり、神様の祝福の象徴でした。
そして、世の終わりには、神様がこの神殿に現れるという希望を持っていました。
多くのお金と時間、また労力をかけて改築されていく神殿を見ながら、当時の人々は神殿が崩れ去るとは、考えなかったと思います。

しかし、2節を見ると、神殿についてイエスは「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われました。
これは、神殿の石垣が完全に崩れ去る時が来るということで、イエスは、神殿が完全に破壊されることを予告しました。

その後、実際に神殿がどうなったかというと、イエス様が神殿の破壊を予告した40年ほど後のAD70年、ローマ軍との戦争で破壊されてしまいました。

未来を知りたい私たち

イエス様が神殿の破壊について話された時、弟子たちは何を考えていたでしょうか?
4人の弟子たちは、神殿の破壊がいつ起こるのか、その時にどんなしるしがあるのか、イエスに聞きました。
弟子たちは具体的な時がいつなのか、それが分からなかったとしても、その前にどんなことが起こるのかを知りたかったようです。

この弟子たちの姿が表している1つのことがあります。
それは、私たちは、未来について強い関心を持っているということです。

私たちは、自分の人生について、この先どういう未来が待っているのかをできれば知りたいと願っています。
だからこそ、時代や場所を問わず、占い師という職業があり、占いは人気があります。

以前、テレビで、世界の恋愛事情について取り上げている番組を見ました。
インドにはヒンドゥー教徒が多くいるが、彼らは、赤ちゃんが生まれるとお寺の僧侶のところに行って、占星術の占いをしてもらうそうです。

この占いでは、人生の全てを占ってくれるそうで、その子の性格、向いている職業、どんな才能があるのか、結婚相手や生まれてくる子どものこと、罹りやすい病気、事故やトラブルなど、人生で起こり得るあらゆることを僧侶が教えてくれます。

そのため、ヒンドゥー教の人々にとっては、この占いに従って生きることが幸せの条件であり、人生においてとても大切なこととされています。

聖書でも確かに、未来のことが予告されている話はありますが、それは単に未来に何が起こるのかを教えるためだけではありません。

イエスが神殿の破壊を予告した時も、イエス様は単に未来に何が起こるのかということを明らかにしたかったわけではなかったようです。
弟子たちの質問に対して、イエスはこのように話し始められました。

イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(5-8節)

ここでイエスが語っていることは、世界の終わりについてです。
世の終わりが近づくと、戦争や地震、飢饉があるとイエスは言っていますが、この中でイエスが最も強く伝えようとしていることは、はじめに言われた言葉だと思います。

それが「人に惑わされないように気をつけなさい」ということです。
たとえイエスの名を名乗る偽メシアが大勢登場して、時やしるしについて語ることがあっても、そういうものに惑わされないようにとイエスは警告しています。

世界の終わりがいつ来るのか、私たちには分かりません。
もしそれが必要な情報だとしたら、神様が教えてくれていたと思いますが、聖書からそれは分かりません。

実際に、未来に起こることをすべてわかったとして、それによって人生がより良くなっていくとは限らないでしょう。

そうだとしたら、私たちにとって必要な、この先、いつどこで何が起こるかを正確に把握しておくことではなく、この先、何が起こったとしても、そこでどう生きるかということではないでしょうか。
未来に向かって、どう生きていくのかという私たちの在り方が問われているのではないでしょうか。

完成という未来へ向かって

そのために、聖書が未来について明らかにしてくれていることがあります。
それは、この世界にはいつか終わりが来るということ、そして、イエスが再びこの地に来られるということです。
ここで大切なことは、終わりの時というのは滅亡の時ではなく、完成の時であるということです。

普通、終わりという言葉を聞くと、破滅とか絶望をイメージすると思います。
しかし、聖書が伝えている世界の終わりは、完成という意味での終わりです。

8節の最後でイエスは「これらは産みの苦しみの始まりである」と言っています。
イエスは、世界の終わりに起こることを、産みの苦しみだと言っています。

産みの苦しみというのは、子供を出産した経験がある方にしか分からないことですが、激痛どころではないようです。
でも、産みの苦しみというのは、ただ苦しまなければいけないだけの時間ではありません。
母親がその苦しみを耐え忍ぶことができるのは、新しい命が生まれてくるための苦しみだからす。

このように、産みの苦しみというのは、何かを新しく生み出す時に感じる苦しみです。
そうだとすれば、世界の終わりに起こることは、単なる苦しみではなく、新しい創造に向かう苦しみだということになります。

聖書はこの世界が破滅して終わるのではなく、神の国として新しく創造されると伝えています。
その時、私たちの体も復活し、命の復活にあずかることになります。
そして、永遠にイエスが治める神の国において生きていくことになるのです。

このことを踏まえれば、今この時というのは、完成という未来に向かっているプロセスの中にあると言うことができます。
この世界とそこに生きる私たちの人生が破滅ではなく、完成に向かっているとすれば、私たちの今は未来へとつながっているのです。

だからこそ、私たちの「今」には大きな意味と価値があるのです。