言い伝えの起源
皆さんは古くからの「言い伝え」を信じる方でしょうか?
日本にも、昔から言い伝えられてきた風習やしきたりみたいなものがあるが、有名なところでは、例えば「流れ星が流れている間にお願いをすると叶う」という言い伝えがあります。
これは、由来を調べてみたらどうやらキリスト教に由来するものだそうです。
昔の人は、流れ星は神様が地球の様子をのぞくために「天の扉」を少しだけ開けたときにもれた光だと考えて、流れ星が流れている時は神様とつながることができることから、願い事がかなうと信じられたそうです。
他にも、日本では「4」と「9」は「死」や「苦しみ」を連想させるため、縁起の悪い数字として使われない、というものや、四葉のクローバーは縁起がいい、茶柱が立つと良いことが起きるとか、食べ物を落としても3秒以内に拾えばセーフとか、色々とあります。
どの世界でも言い伝えみたいなものはあると思うが、キリストの時代、ユダヤにも言い伝えがありました。
日本の言い伝えは、ただ縁起がいいか悪いかというレベルの話ですが、昔のユダヤの言い伝えは「信仰」に関わるものでした。
言い伝えを守ることが、神様を信じることと直結していたのです。
言い伝えが生まれた背景には、律法があります。
ユダヤの人々は、旧約時代のモーセの時に神様から与えられた「律法」という掟を大切に守って生活をしていました。
その律法を生活の中で具体的に実践するために、さらに細かいルールを自分たちで追加していきました。
例えば、「安息日には仕事をしてはならない」という律法がありますが、この律法を守るためには、どこからが仕事でどこからが仕事ではないかを明確にする必要があります。
それで、安息日にしてはならない仕事として、39種類の仕事が定められ、最終的には1521もの禁止行為のリストが作られたそうです。
このように、ユダヤでは律法を守るために定めた細かいルールが言い伝えという形で、受け継がれていきました。
言い伝えは、律法と同じレベルで大切なものとして扱われるようになったのです。
何が神に従うことなのか
今日分かち合う聖書の場面で扱われている言い伝えは、食事の時に関するものです。
2000年前のユダヤでは、食事をする前にしっかり手を洗わなければなりませんでした。
また、市場から帰ってきた時には、体を洗ってから食事をしないとなりませんでした。
これは、単に、衛生面のことを問題にしているのではありません。
ユダヤには、祭司と言われる宗教儀式に携わる人々がいました。
律法によると、祭司たちは宗教儀式を行う前に、水で体を洗って、汚れを清めなければなりませんでした。
これは祭司が守るべき律法でしたが、次第に、一般のユダヤ人たちも祭司と同じように、朝の祈りの前に自発的に手を洗って清めることが習慣となっていきました。
そして、キリストの時代になると、敬虔なユダヤ人は、食事の前に手を洗うことを習慣として守るようになったのです。
「市場から帰った後に身を清めること」や
「器を清める」という言い伝えも、食事の時に汚れから身を守るためのものでした。
しかし、当時のユダヤに、こういう言い伝えを守らない連中がいました。
それが、キリストの弟子たちです。
当時のユダヤにおいて、律法や言い伝えを特に大切に考えていたのが、ファリサイ派と呼ばれる人々と律法学者たちで、彼らはユダヤの伝統、特に律法を重んじていた人々です。
彼らは、キリストの弟子たちの中に、手を洗わずに食事をしている人がいるところを見ました。
それでキリストに対して「どうしてあなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従わずに、汚れた手で食事をするのか」と、尋ねました。
彼らがそう尋ねたのは、キリストを攻撃する意図がありました。
これに対して、キリストは、旧約時代のイザヤという預言者の言葉を引用しながら、答えました。
6-8節までを見ると、キリストはファリサイ派の人々や律法学者たちのことを「偽善者」と言いながら、彼らがやっていることは、神の掟を捨てることだと反論しました。
ファリサイ派や律法学者たちにとって、言い伝えを守ることは神様の掟に従うことでしたが、キリストは神の掟を捨てることだと、正反対のことを言われたのです。
ファリサイ派や律法学者たちというのは、神様に従うことにおいて、とても熱心で、真面目な人たちです。
言い伝えが生まれた背景を考えてみても、律法を徹底的に守るために、神様への信仰によって生まれてきたものです。
しかし、キリストからしたら、彼らがやっていたことは、神様の掟を捨てることでした。
何を思っての行動なのか
キリストが言われた「偽善者」という言葉は「俳優」や「演技者」を意味し、本当の心を隠して演じる人のことを表す言葉です。
キリストがここで問題にしていることは、心です。
キリストは、イザヤの言葉を借りて「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている」と言われました。
ファリサイ派や律法学者たちの外面的な言葉や態度は、真実で敬虔そうに見えたかもしれないが、その内側を見ると、実際には別の心があったということです。
言葉や態度という目に見える部分は、ある程度ごまかしがききます。
口では何とでも言えますし、何かをやっている振りをすることもできます。
どんなに敬虔そうで、立派そうなことをやっていたとしても、「決められていることだから守っている」というだけでは、あまり意味がありません。
食事の際の汚れの問題というのも、本当は手を洗っているかどうかという表に見える部分ではなく、その心がどこに向いているのかが重要なはずです。
何かを守ったり、行ったりするのであれば、大切なのはその心です。
特に、信仰が関わるものであれば、神様に向けられた心です。
もし、単に決められていることだから守るということをしていると、何が起こるというかと、決められていることを守れない人、守らない人に対して批判的になり、攻撃するようになるでしょう。
「なぜあの人は…」と。
そして、人の過ちを指摘することに躍起になっているうちに、本当に大切なものを見失っていきやすいでしょう。
信仰において言えば、神様という存在を見失っていきます。
特に、熱心であればあるほど、真面目であればあるほど、極端な方向に行く傾向があります。
時に、熱心さや真面目さが、本当に大切なものを見えなくしてしまうこともあるのです。
でも、守れない人、できない人にも何かしらの事情があるかもしれません。
守れるように祈ったり、何か助けたりすることもできるかもしれません。
神様は心を見る
神様は目に映る部分ではなくて、私たちの心を見ておられるお方です。
本来、私たちの心を見られるのが、一番怖いことです。
心というのは、人の目には触れないので隠すことはできるが、その反面、ごまかしがききません。
普段は、ある程度隠せる心の部分を、神様が見ているとすれば、何の言い訳もできません。
しかし、神様は私たちの心を監視するために、心を見られるわけではありません。
聖い心なのかどうか、正しい心なのかどうかを見張っているわけではありません。
神様は、私たちの心の部分をもっと大切にしてくださるということです。
私たち心は正直であり、純粋です。
人間の純粋な反応が表れるのが心なので、批判したい時もあるし、怒りで満ちている時もあります。
いつも正しく清く美しく生きることは難しいし、複雑な思いの中で生きていくのが人間です。
決められたことをできないこともある、やるべきことをできないこともあります。
神様は、そういう時の私たちの複雑な心をよく知っておられます。
神様は、私たちが心で感じているいろんな思いを、受け止めてくださるお方です。
熱心さや真面目さが信仰を育てていくのではありません。
それはあくまでも、トッピング程度のものに過ぎません。
神様に対する心、神様を愛する心、神様に対する正直な思いを持って生きていくことが、私たちの信仰を作り上げていくのです。