現代人が負っているストレス
28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉は、聖書の中でもよく知られている言葉の一つです。
この言葉は、多くの人々の心を惹きつけ、励ましてきた言葉だと思います。
この言葉がキリストを信じるきっかけとなったという人もいると思いますし、この言葉を聞いて、反感を感じる人はほとんどいないのではないでしょうか。
なぜ、私たちはこの御言葉に心が惹かれるのでしょうか?
それは、私たちの多くがこの社会で生きることに疲れを感じていて、日々、いろんな重荷やストレスを感じているからだと思います。
「罪人」という言葉を聞くと「自分は罪人じゃない」と反発したくなるかもしれませんが、「疲れた者」「重荷を負う者」という言葉は、自分自身と重ね合わせやすい言葉です。
それで、多くの人はこの言葉を自分自身に重ね合わせて聞くことができるのでしょう。
ここで「重荷を負う者」という言葉は、正確には「重荷を負わされている者」という言葉です。
負わされているというのは、自分が望んだわけではないのに負っているということです。
そのように、自分が何か悪いことをしたわけではないのに負わなければならない重荷があります。
そういう重荷は、特に私たちの心に重くのしかかり、疲れを感じさせます。
疲れていて、重荷を負わされている人が何を求めるのかというと、やはり休みです。
仕事の休みが欲しいとか、肉体的な休みが欲しいということもあると思いますが、それ以上に人々が求めているのは、心の休み、休息ではないでしょうか。
このように、キリストは疲れた者、重荷を負う者に対して「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と呼びかけておられます。
深い孤独の中で
そこで問題となるのは、本当にキリストのもとに行くだけで休むことができるのかということです。
なぜキリストは「休ませてあげよう」と言うことができるのでしょうか?
キリストによって与えられる休みとはどのようなものなのでしょうか?
マタイによる福音書の11章に書かれていることは、キリストに対する人々の反応です。
11:1に「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。」とあります。
キリストは町に行き、多くの人々に出会って御言葉を教えたり、病を癒したりしながら、ご自身がメシアであることを示しました。
しかし、人々の反応は思わしいものではありませんでした。
例えば、牢屋の中でキリストの話を聞いた洗礼者ヨハネは、キリストが本当に預言されているあのメシアであるのか、疑いを抱くようになりました。
それは、ヨハネが待ち望んでいたメシアは、悪を裁く正義のメシアでしたが、キリストが教えたり、行ったりしていた話は、自分の中のメシアのイメージとギャップを感じるようになったからでした。
また、キリストが悔い改めない町を叱る場面が11章に書かれています。
キリストは数多くの町で奇跡を行いましたが、人々はキリストを拒絶し、メシアとして受け入れることはありませんでした。
それで、キリストは悔い改めない町のことを嘆きました。
このように、人々から拒絶されるという出来事があった後に書かれているのが、25節から30節の言葉です。
この中で、27節に「父のほかに子を知る者はなく」という言葉がありますが、この言葉には大きく2つの意味があります。
1つは、父以外の人々は、子であるキリストを知ることはできなかったということです。
これは当時の人々は、キリストをメシアとして知ることはできなかったということです。
確かに、多くの人々はキリストを追い求めて、いつもキリストの周りには人だかりができていました。
ある人は病の癒しや悪霊からの解放を求めて、またある人は、ユダヤがローマから解放されることを願って、キリストのもとにやってきました。
しかし、本当の意味では、キリストは父以外からは誰からも理解されていませんでした。
それは、3年以上の月日、寝食を共にした弟子たちであってもそうでした。
キリストが逮捕された後、弟子たちはみな、キリストのもとを離れていきました。
そういう意味で、キリストはこの時、誰からも理解してもらえない痛み、深い孤独を感じていたと思います。
キリストのもとにある安らぎ
このように、キリストは人々に拒絶され、誰からも理解されないという深い孤独の中にいましたが、その時言われたのが、今日分かち合っている言葉です。
25節から27節までは、キリストの父なる神様に対する祈りの言葉です。
25節に「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」とあるように、キリストは深い孤独の中でも、父なる神様をほめたたえました。
宣教の働きに期待した実りがなく、それが無駄のように思えたとしても、それでもキリストは父なる神様をほめたたえたのです。
そうできたのはなぜでしょうか?
それは、父なる神様だけは子である自分のことを知っておられ、理解してくださっていることをキリストが感じていたからでしょう。
また「父のほかに子を知る者はいない」という言葉のもう1つの意味は、まさにこの部分にあります。
父なる神様だけは、ご自分の子であるイエスのことをよく理解しておられました。
「父のほかに子を知る者はいない」という言葉は、父なる神様と子なるキリストが、愛と信頼に満ちた深い関係にあることを表しています。
キリストが深い孤独を感じていた時でさえも「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父なる神様をほめたたえることができたのは、父なる神様との愛と信頼の関係があったからでしょう。
この父と子の関係はずっと変わっていませんし、これからも変わることはありません。
十字架という死でさえも、この関係を壊すことはできませんでした。
それでも残る重荷
このことを踏まえて「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉を考えてみましょう。
なぜキリストはそのように「休ませてあげよう」と言うことができるのでしょうか?
私たちがキリストのもとで休むとは、どういうことなのでしょうか?
私たちがキリストのもとに行くということは、私たちが父と子の愛と信頼の関係の中に入っていくということです。
そうだとすると、キリストを信じるとか信仰を持つということは、私たちが神様との愛と信頼の関係の中で生きていくということだと言えます。
私たちが神様と築いていく愛と信頼の関係は、何によっても奪われることはありません。
死であっても変わらないものだからこそ、ここに本当の意味での安らぎ、心の休息があるのです。
そして、この場面で1つ注目すべきことは、キリストはあくまでも「休ませてあげよう」と言ったのであり「背負っている重荷をすべて取り除いてあげよう」と言ったわけではないということです。
もちろん、キリストによって取り除かれたり、軽くされたりする重荷もたくさんあります。
罪という重荷が取り除かれ、誰からも理解されない孤独という重荷が軽くされ、生活の中で感じる心配や不安という重荷も、ある程度は小さくなるでしょう。
だからといって、私たちの人生から重荷というもの自体が完全に消滅するわけではありません。
そもそも聖書は、重荷のない人生はないとは言っていません。
聖書が「自由」について語る時も、それは重荷が全くない状態のことではありません。
キリストによって罪が赦され、罪から自由になったとしても、私たちにはそれでも背負わなければならない重荷というものがあるのです。
キリストと横並びの人生
そのことについてキリストが語っているのが、29節と30節です。
29節の終わりに「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあるように、キリストのもとに行くことで得られる安らぎがあります。
それと同時に、ここでキリストは重荷のことを「わたしの軛」とか「わたしの荷」という言葉で表現しています。
軛というのは、牛の首のところにひっかけて、2頭の牛をつなげる道具のことです。
軛という荷を2頭が一緒に背負うことで、2頭は同じ方向に進むことができ、それによって一緒に働くことができるようになります。
29節に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とあるように、キリストは「わたしの軛を負いなさい」と言っておられます。
私たちは、キリストのもとに行くことで安らぎを得られると同時に、負わなければならない軛があるというのです。
それでは、この「わたしの軛」「わたしの荷」というのは何でしょうか?
それは、私を苦しめ、痛みを与えるものなのでしょうか?
ここで考えたいことは、軛というのは単に、重荷のことを言うのではなく、2頭を結び合わせる道具だということです。
軛によって、2頭は同じ方向に進むことができ、共に働くことができるのです。
そうだとすると、キリストの軛というのは、私がキリストの横に並び、キリストと共に生きていくということに他なりません。
つまり、キリストの軛を負うことは、キリストをメシアとして受け入れ、キリストと共に歩んでいくことです。
キリストを信じて、信仰を持って生きるとしても、私たちの人生には背負うべき重荷があります。
しかし、キリストの軛を負う時、すなわち、キリストと共に生きる時、私たちが感じる苦しみや痛みをキリストが共に負ってくださるのです。
私たちの苦しみや痛みを共に感じ、私たちと一緒に歩んでくださるのです。
キリスト自身もその軛を負っているからです。
今日のキリストの言葉を言い換えると、このようになるのだと思います。
「わたしのもとには、父なる神様との愛と信頼の関係の中で生きていくという安らぎがあるよ。すべての重荷がなくなるわけではないかもしれないけど、わたしのもとに来て、喜びも悲しみも痛みも、いろんなものを分かち合いながら、私と一緒に生きていかないか。」