牧師ブログ

「ボーンアゲイン」

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3:1-5)

超エリート教師 兼 議員

キリストがユダヤ社会にメシアとして現れた時、大きく二つの受け止め方がありました。
1つは、イエスをメシアだと信じようという反応です。

あキリストが参列していた結婚式で、招待客に振る舞うワインがなくなってしまった時、キリストは水をワインに変えるという奇跡をなされました。
それを見て、キリストに従い始めていた弟子たちは、この方をメシアだと信じました。

また、弟子たちだけではなく、キリストがなさったしるし(悪霊を追い出したり、病人を癒したりなど)を見て、イエスをメシアとして信じる人々が大勢出てきたのです。

このように、ユダヤの中にキリストが現れた時、弟子たちやその他大勢の人々がイエスをメシアだと信じたきっかけは、キリストがなさったしるし(奇跡)にありました。

これとは反対に、キリストを怪しい目で見る人々もいました。
その代表が、ユダヤ教の指導者たちです。
当時、ユダヤにはサンヘドリンという政治や宗教の最高機関がありました。
この議会は全部で71人で構成されていて、議員は祭司や律法学者など、ユダヤの宗教的な指導者などのエリートたちでした。

この議員の1人に、ニコデモという人がいました。
ニコデモはある夜、キリストのもとにやってきて、こう尋ねました。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(2節)

ニコデモはファリサイ派というユダヤ教の中でも律法を厳格で、宗教的に最も清い生活を送っていたグループに属していました。
当時、ファリサイ派に属する人が6000人いたと言われていて、その中でサンヘドリンの議員71人のうちの1人がニコデモでした。
このことから、ニコデモは豊富な知識と教養があり、高い地位と権威、影響力を持っていた超エリートだったと言えます。

当時のユダヤ人のモデルのような人がニコデモだったでしょう。
天国の中でも、ど真ん中にいると思われていたような人物がニコデモでした。

噛み合わない会話

そんなニコデモがなぜキリストを訪れることになったのでしょうか?
2節の言葉から、ニコデモがキリストを訪れた理由は、イエスがメシアであるかどうか、直接本人に確かめるためだったようです。
おそらく、本人の口から「私が聖書で約束されていたあのメシアである」という明確な言葉を聞きたかったのでしょう。

しかし、キリストはニコデモに全く違う話をし始めました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)

ニコデモはこの言葉を聞いて混乱しました。
どうやって人間が母親のお腹の中に戻って、もう一度生まれることができるのかと。

そうすると、キリストは再び言われました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)

3節と5節の言葉は、同じ意味の言葉です。
「新たに生まれること」は「水と霊とによって生まれること」であり、「神の国を見ること」は「神の国を入ること」です。

ニコデモの目的は、イエスがメシアであるかどうかはっきりと確かめることにありましたが、キリストはいきなり新たに生まれるという話、神の国の話を始めました。
なぜ突然そういう話をし始めたのでしょうか?

キリストとの危うい関係

この時、ニコデモを含め、多くの人々はキリストがなさったしるしに注目していました。
キリストと行った奇跡を見て、人々はイエスをメシアだと信じ始めていたのです。
そういう人々の信仰について、キリストはどう思っていたでしょうか?

イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。(ヨハネによる福音書2:23-24)

キリストは人々の信仰について、信用していませんでした。
しるしだけに注目して、イエスをメシアだという信仰について、懐疑的に見ていたということです。

実際に、イエスをメシアだと信じた多くの人々は、その後、キリストのもとから離れていきました。
最後には弟子たちでさえも、一人残らず、キリストを裏切り、去っていったのです。

しるしによってつながる関係というのは、目に見えるものによってつながる関係であり、この関係は行いや結果に左右されます。
パフォーマンスや結果に基づく関係は、ビジネスの関係であり、キリストはしるしによってつながりはいつか終わってしまうことをよく知っておられたでしょう。

だからこそ、キリストは大切なことは私が行うしるし、奇跡にあるのではなく「新たに生まれること」であり、「神の国を見ること」だとニコデモに伝えたのでしょう。

ニコデモはファリサイ派に属する律法の専門家であり、教師でしたが、いくらニコデモが律法を厳しく守ったとしても、そういう自分自身の能力や努力によって、神の国に入ることができるわけではありません。
キリストが言うように「新たに生まれなければ」ならないのです。

新たに生まれなければ神の国を見ることはできない

それでは新たに生まれること、また、神の国を見るとはどういうことでしょうか?
まず、新たに生まれることについて考えてみましょう。
日本語に「心機一転」という言葉があって、これは「新たに生まれ変わった気持ちで頑張る」というような意味の言葉です。

しかし、キリストが言った「新たに生まれる」というのは、そのように心を切り替えるとか気持ちを新たにするとか、心持ちの問題ではありません。

5節に「水と霊とによって生まれなければならない」とありますが、これは聖霊によって生まれるということであり、神様が私を新しく生んでくださるということです。
私たちは自分で自分を新たに生まれさせるのではなく、神様によって生まれさせていただく側に立っているのです。

そのように神様によって新たに生まれた人が神の国を見ることができます。
神の国というのは、神様との愛と信頼によって成り立っている世界です。
パフォーマンスや結果に基づく関係ではなく、愛と信頼によって神様とつながり、関わり続けるのが、神の国です。

神の国は死後の世界のことではありませんし、そこは、人間側の能力や努力が問われる世界でもありません。
神様によって新たに生まれさせていただくことで、神の国で生きる人生が始まるのです。
神様との愛と信頼による関係をもって生きていく人生、それが神様が回復しようとしてる世界であり、私たちが幸せに生きることのできる世界なのです。