牧師ブログ

「永遠の命を生きる」

1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。(ヨハネによる福音書17:1-5)

永遠に生き続けたい?

皆さんは「永遠の命」がほしいでしょうか?
この世界は少しでも長生きすることをよしとする社会で、そういう価値観に基づいて医療が発展してきたという側面もあり、それに伴って、人の寿命も確実に延びています。
聖書からも、長生きすることは神様が与えてくれる祝福の一つだと言えます。

ただ、聖書が言う「永遠の命」が単に死ぬことなく長く生き続けることだとすると、その価値は揺らいでしまいます。
なぜなら、人は誰もが、永遠に生き続けたいと願っているわけではないからです。
この世界には、生きることが苦しみでしかないと感じておられる方々もいます。

確かに長生きすることは神様の祝福の一つではありますが、だからと言って、私たちは誰がもっと長生きできるかを競いながら生きているわけではありません。
このことから、人生の価値、私たちの幸せは単に何歳まで生きるかで決められるわけではないと言えます。
人間にとって重要なことは単に命の「長さ」ではなく、与えられた命をどのように生きるのかという命の「中身」の方ではないでしょうか。

愛と信頼の関係

聖書は永遠の命を与えるのはキリストだと伝えています。
それでは、永遠の命の中身とはどのようなものでしょうか?

3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とキリスト自ら言っています。
永遠の命とは、天の父なる神とその独り子であるキリストを「知る」ことです。

ここで「知る」というのは単に知識として認識すること以上の意味があります。
原文の意味を汲むと「知り続ける」と訳した方が適切かもしれません。
知り続けるというのは、相手との関係を築いていくということです。
神様が私たちと築こうとされている関係とはどのような関係でしょうか?
それは支配関係ではなく、対等な関係に基づく愛と信頼の関係です。

キリストが逮捕される直前、十字架の死が迫る中で祈った今日の本文の中に現れているキリストの祈りに、まさにキリストと父なる神との愛と信頼の関係が見られます。
1節と5節を見ると、キリストは「父よ」と天の父を呼びながら「栄光を与えてください」と祈っています。
この栄光というのは、十字架の道に進んでいくことによって与えられる栄光です。
つまり、「わたしは十字架へと進んでいきます、父よ導いてください」というような祈りです。

それと同時に、他の福音書を見ると、キリストが十字架の死への恐れを感じながら祈っているシーンがあります。
その時キリストは「十字架の苦しみを取り除けてください」と正直な心を祈りの中で表しています。
ただその後に「しかしわたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」とその祈りは続いています。

恥と屈辱、苦しみに満ちた十字架の死が目の前に迫っている中で、なぜキリストはそのように祈ることができたのでしょうか?
自分の正直な思いを打ち明けながらも、父なる神が願われることに従おうとできたのはなぜでしょうか?
それは、キリストと父なる神の関係が、愛と信頼の上に成り立っていたからではないでしょうか。

長さでは測れない命の価値

もし、キリストと父なる神が愛と信頼とは程遠い関係、疑いや恐れの関係だったらどうだったでしょうか?
死の直前であっても、その苦しみを取り除けてくださいとは祈れなかったでしょう。
「そんなこと言ったら何を言われるかわからない」
「そもそもなぜ神は十字架なんてわたしに与えるのか」
「そんな神ならいらない」
このように思ったでしょうし、そもそも「父よ」と父に呼びかけて祈ることすらできなかったのではないでしょうか。

しかし、死の直前であっても、キリストが自分の思いをありのままに祈ることができたのは、父なる神への愛と信頼があったからではないでしょうか。
だから、十字架の時を栄光として受け入れることができたのではないでしょうか。

愛と信頼の基づく関係には、大きく二つの要素があります。
一つは自分が素でいられることです。
自分を繕わなくてもいい、偽らなくていい、自分のありのままの姿をさらけ出せる関係です。

もう一つは、何があっても見捨てられないということです。
キリストが十字架の道を歩むことができたのは、それが父に完全に見捨てられることではないという思いを持てたからではないでしょうか。
十字架の中に父が共にいてくださる、苦しみの中でも神が導いてくださる、そんな父への信頼があったのではないでしょうか。

このことから、キリストが与えてくれる永遠の命とは、神様と愛と信頼の関係に生きていくことだと言えます。
そうだとすれば、そこで問題となるのは、命の長さではないことは明らかです。
この命に生きることこそが、本当の意味で私たちの人生を価値あるものとするのではないでしょうか。