イエスの生涯に働いた聖霊
この福音書を記したルカは、イエス様の生涯において、聖霊の働きをかなり強調しています。
3章には、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが書かれているが、その時、洗礼を受けたイエス様の上に、聖霊が降されました。
また、4章に入ると、イエス様が洗礼受けたヨルダン川から帰ってきた時も、聖霊に満ちていましたし、その後、荒野に行き、そこで悪魔に誘惑された出来事も霊によるものだと記されていて、荒野からガリラヤに帰ってきた時も、霊の力に満ちていました。
そもそも、イエス様が母マリアのお腹に命を宿したことも、聖霊によるもので、イエス様の生涯全体が聖霊と共にあったと言ってよいでしょう。
これからのことから、イエス様の働きの原動力、使命を成し遂げる力は、聖霊によってもたらされていたことがわかります。
この事実は私たちにとって、とても励ましとなることです。
なぜなら、イエス様のに臨んだのと同じ霊が私たち中に共におられるからです。
イエス様の生涯は、聖霊によって守られ、導かれましたが、だからと言って、イエス様の人生に試練や困難がなかったわけではありません。
最後には、同胞であるユダヤ人の執拗な要求によって、十字架にかけられて殺されました。
聖霊が共にいること、精霊に導かれることというのは、常に私たちを安全な道にエスコートしてくれるということとは少し意味が異なります。
試練や困難に遭ったとき、聖霊はそれらをくぐり抜ける知恵と力、意思を与えてくれるのです。
イエス様が聖霊に導かれて、それに従ったことにより、与えられた使命を成し遂げていったように、私たちも聖霊の働きにより、使命に生きることができるのです。
主の恵みの年
それではイエス様がなしてくださった使命とは何だったのでしょうか?
これについて、本文の中でイエス様自身が語っておられます。
これはイザヤ書から引用してイエス様が語ったもので、メシアに関する預言の言葉です。
イエス様はそこに書かれている「わたし」がイエス様ご自身であることを示しながら、私がそのメシアであるということを明らかにするようにして、この言葉を朗読しました。
イエス様がメシアとして担っていた使命が書かれていますが、それが「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことであり、また「主の恵みの年を告げる」ことです。
主の恵みの年という言葉は、レビ記の中にある「ヨベルの年」を思い出させる言葉です。
律法には、イスラエルで50年に一度訪れる、ヨベルの年という特別な年が定められていました。
この年になると、例えば、貧しさによって身売りした人が無条件に解放されたり、貧しさゆえに売却した土地も無償で元の持ち主に返されたり、奴隷として売られた人が解放されたりしました。
つまり、ヨベルの年というのは貧しい人々にとっては恵みの年だったのです。
何の犠牲や代価を払うことなく、無条件に解放と自由がもたらされたのがヨベルの年でした。
受け入れられるという恵み
律法に定められていたヨベルの年は50年に一度の出来事でしたが、イエス様はどのようにして主の恵みの年をもたらされるお方でしょうか?
「主の恵みの年」の「恵み」という言葉は「受け入れる」を意味する言葉です。
なので、主の恵みの年という言葉を直訳すると「主が受け入れる年」となります。
イエス様が実現される主の恵みの年は「受け入れること」によってなされていくものです。
イエス様は神様が私たちを受け入れていることを伝えるために、この世に来られたお方です。
しかも、21節に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様が言っておられるように、ただ伝えるだけではなく、それを実現してくださったのがイエス様です。
私たちと神様との間にある壁を取り除き、私たちが神様に受け入れられている神の子として歩むために、イエス様は十字架に向かわれたのです。
こちらがどういう態度を取るか、何を差し出すことができるのか、こういうことに関係なく、何の資格や条件なしに、神様は私たちのことを受け入れてくださっています。
主の恵みの年はすでに到来しました。
今私たちは、主の恵みの年、2022年を生きているのです。