最初のしるし
ヨハネによる福音書の中には、イエスがメシアであることを示す7つのしるしが書かれており、その最初のしるしが、イエス様が水をぶどう酒に変えた奇跡です。
ある時、カナで行われる結婚式に、イエス様の母とイエス様、そして、弟子たちが招待されて参加していました。
ユダヤ人の結婚式というのは、とても盛大に祝われます。
宴会だけでも一週間にわたって行われ、その間、参加者は食べては飲んで、歌っては踊りと、余興を楽しみました。
宴会で招待客に振る舞われるものの一つが、ぶどう酒であり、宴会中にぶどう酒がなくなることはとても失礼なことで、新郎新婦にとっても恥ずかしいこととされました。
そのため、宴会の世話役を務める人は、宴会の雰囲気を守るために、ぶどう酒がなくならないように注意を払ったそうです。
しかし、イエス様が参加していた婚礼の宴会で、そのぶどう酒がなくなってしまいました。
そこで、イエス様は召し使いたちに対して、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ6つに、水をいっぱいに入れるように命じました。
召し使いがそこから水を汲んで、宴会の世話役のところに持っていくと、なんと水がぶどう酒に変わっていたのです。
これは科学的には到底考えられないことで、まさに奇跡です。
だからと言って、この出来事を記したヨハネは、単にイエス様が起こした超自然的な現象を取り上げて、イエス様を奇跡の人として描き出そうとしたのではありません。
ヨハネは、イエス様が起こした奇跡を通して、イエス様に関するある重大な真理を明らかにしようとしています。
わたしの時
ぶどう酒がなくなった時、真っ先にイエス様の母マリアがイエス様にそのことを伝えに行きました。
そうするとイエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と答えました。
確かに、ぶどう酒を管理する責任は、新郎新婦やその家族、とりわけ世話役にあったわけで、招待客の一人であるイエス様には本来、関係のない話です。
ただ、イエス様は単にマリアの言葉を冷たくあしらったわけではなさそうです。
この時、イエス様は同時に「わたしの時はまだ来ていません」と少し不思議なことを言われました。
話の流れからは逸れているような言葉ですが、実はこの言葉にこそ、今日の本文を理解するポイントが隠されています。
イエス様が言われた「わたしとどんなかかわりがあるのですか」という言葉は、言い換えると「ぶどう酒がなくなったことは、わたしの関わることではありません」ということです。
さらにいうと「わたしの関心とあなたの関心は別のところにあります」という意味に取れる言葉です。
そうだとすると、イエス様の関心はどこにあったのでしょうか?
それこそが「わたしの時」です。
わたしの時というのは、イエス様が受ける苦難の時、すなわち十字架のことを指しています。
イエス様はこの時から十字架を視野に入れて歩んでいたということであり、人々の代わりに十字架の苦難を受けて、人々の救いとなることを願って生きていました。
天の喜び
水をぶどう酒に変える奇跡というのは、このわたしの時、十字架と関わる出来事です。
宴会の席において、ぶどう酒がなくなるということは、喜びが失われる出来事でした。
その意味で、イエス様は水をぶどう酒に変え、人々の喜びを満たしてくださったのです。
また同時に、ぶどう酒はイエス様の血を象徴するものでもあります。
イエス様は、十字架の時にご自身が流される血によって、人々を救われるお方です。
本当の意味で人々が喜びに満たされるのは、何か物質的なものによるのではなく、イエス様の救いが訪れる時です。
十字架の血によって、私たちの罪は赦され、再び神様の子供としての身分を回復することができたのです。
この神様との関係に生きることこそ、イエス様が私たちに与えてくださる喜びです。
イエス様は、私たちのことを天国の宴会へと招待してくださっています。
天国の宴会というのは、死んだ後に至る天国という意味だけではなく、この地上からすでに始まっています。
それが死後の世界に至るまで永遠に続くのが、天国の宴会です。
神様と共に生きる中で私たちが味わうことのできる喜びが、天国の宴会に招待されたものに与えられている喜びなのです。