宗教改革記念日
今日10/31というと、世間では例年、ハロウィーンで大盛り上がりする日ですが、プロテスタントのキリスト教界においては「宗教改革記念日」です。
宗教改革の始まりは、1517年10月31日に、マルティン・ルターが当時の教会や信仰のあり方を批判した「95カ条の論題」という文章をヴィッテンベルク教会の扉に張り出したことがきっかけでした。
ルターは当時、絶対的な権力を誇っていたローマ教皇やカトリック教会に対して、聖書こそが最終的な権威であると主張しました。
宗教改革の大きな意義の一つは、「聖書のみ」が主張されたことにより、聖書が全ての信仰者に平等に開かれていることを示したことにあります。
それまでは、カトリック教会が言う聖書解釈が絶対のものでしたが、宗教改革により、聖書を手にした民衆一人一人が直接、神の言葉に触れて、それを解釈し、理解できるようになりました。
このように、多くの人がそれぞれ聖書の言葉に向き合い、それを解釈していくことはとても健全なことではありますが、それによって聖書が何を言っているのか、多くの解釈が生まれることになりました。
その結果として、プロテスタントは無数の教派へと分裂していったのです。
この歴史が表していることは、教会にとって聖書が絶対的に最終的な権威だとしても、それを解釈する人間は絶対ではないということです。
そしてまた、聖書をどう解釈するかという人間側の作業以上に、聖書を通して、どのような神を礼拝し、その神とどのような関わりを持つのかという神との関係を構築する重要性です。
どう解釈するのか
イエス様の時代に、聖書(旧約)を解釈していたのは、当時、ラビと言われていた律法学者たちでした。
彼らの大きな関心の一つは、律法の中でどれが一番重要であるのかということでした。
旧約聖書には「〜しなさい」「〜してはならない」という律法が、全部で613あります。
そのため、ラビたちは、その中で最も重要な掟は何であるのかを巡り、議論していました。
当然、人によって解釈は異なるわけで、律法学者の中にも派閥のようなものはあったのだと思います。
律法学者というと新約聖書の中では悪者扱いされていますが、その中で唯一、肯定的に描かれているのが、今日の本文に出てくる人です。
イエス様の存在を鬱陶しく感じ始めた宗教指導者たちは、ことあるごとにイエス様を訴える口実を得ようと、悪意のある質問を投げかけました。
そんな中で、真剣な思いでイエス様に尋ねるためにやってきた人がいたのです。
彼がイエス様に聞いたことは「あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか」というものでした。
イエス様は、旧約聖書を引用しながら「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つにまさる掟は他にないと答えられました。
これに対して律法学者は開口一番、「先生、おっしゃるとおりです。」と答えたように、彼は律法が何を言わんとしているものであるのか、その本質をよく理解できていたようです。
彼は律法を正しく解釈していたのです。
イエス様も彼が適切な答えをしたのを見て「あなたは、神の国から遠くない」と言われたほどでした。
「あなたは今、神の国にいる」
「あなたは神の国から遠くない」という言葉は、少し微妙な言葉です。
「遠くない」ということは、遠くはないけどそこまで近くもないということです。
この言葉が意味することは、いくら律法(聖書)を正しく解釈していたとしても、そのことが人を救いへ導くのではないということです。
ルカによる福音書の23章に、イエス様とともに十字架にかけられた二人の犯罪人の話が書かれています。
マタイによると、その二人は強盗だったようですが、イエス様はそのうちの一人に対して「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
これは言い換えれば「あなたは今、神の国にいる」ということです。
律法を正しく解釈できていた律法学者は、イエス様から「あなたは神の国から遠くない」と言われたのに対して、ユダヤで最も重い刑罰である十字架にかけられた強盗は「あなたは今、神の国にいる」と言われたのです。
強盗の男は、律法学者とは正反対に、律法なんかとは無関係に、神を愛することもなく、隣人を愛することもなく生きてきた人でしょう。
なぜそんな人が「あなたは今、神の国にいる」と言われたのでしょうか?
男は直前に、イエス様にこう言っていました。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」
強盗犯が殺される前に、自分の救いを願うということは、とても厚かましいことのように思えます。
それでも男は、これまでの人生の中で、自分がどれだけの悪事を働いてきたのか、よく知っていながらも、イエスという方が自分のことを受け入れて下さることを信じ、願いました。
イエス様は、律法も知ることも正しく解釈することもなかった男が「今、神の国にいる」と言われたのです。
イエス様は、律法を正しく解釈し、その通りに生きている人を救ってくれるのではありません。
たとえ律法を知ることも守ることもなく、身勝手に生きてきたとしても、イエス様に救いを求めるのであれば、イエス様は神の国に招いて下さるお方なのです。