預言者エリヤ登場
エリヤという預言者が活動を始めたのは、北イスラエルが霊的に最悪な状況にある時だった。
当時、北イスラエルを治めれていたアハブ王はヤロブアムの罪(=金の子牛礼拝)を繰り返していただけでなく、イゼベルという異邦人の王女を妻に迎え、彼女が信じていたバアルを崇拝した。
エリヤはこの霊的な状況を打破するために、アハブ王の前に立ち、こう告げた。
エリヤは数年の間、国を干ばつが襲うことになるとアハブに告げた。
このことは、エリヤが神様の預言として伝えたというよりも、エリヤが神様に祈り求めたことだった。
干ばつというのは飢饉をもたらす自然災害であり、民の生活を苦しめる大きな災いである。
なぜエリヤは、あえて災いを願い求めたのだろうか?
そこには、アハブ王が仕えていたバアルという偶像が深く関係している。
バアルは雨を支配する神であり、農作物の豊穣をもたらしてくれる神だと信じられていた。
そのため、干ばつにより飢饉が起こるということは、雨の神であるバアルが働いていないということになる。
つまり、エリヤは干ばつが起こることによって、バアルは雨の神なんかではなく、イスラエルの神である主こそ、本当の神であることを示そうとしたのである。
エリヤにとって本当の災いは、飢饉による苦しみではなく、民と主なる神様との関係が立たれていることだった。
預言者エリヤ退場
エリヤが北イスラエルの霊的な回復に情熱を燃やし、アハブ王の前に立った時、神様の言葉がエリヤに臨んだ。
神様はこれからバアルとの直接対決に挑もうとしていたエリヤに、王の前から去るように言われた。
そして、ケリト川のほとりに身を隠し、その川の水を飲み、そこで烏によってあなたを養わせると告げた。
神様はせっかく表舞台に出てきたエリヤのことを、即刻退場させてしまったのである。
なぜ神様はエリヤの情熱を挫くようなことをされたのか?
それは、エリヤが神様に仕える預言者として、相応しく整えられるためであった。
神様はエリヤを徹底的に訓練するために、烏に養われるようにされた。
当時、イスラエルの律法によると、烏は食べてはならない汚れた動物であった。
エリヤは、よりによって動物によって、それも汚れた烏によって自分の食事の面倒を見てもらわなければならなかった。
干ばつによってケリト川の水が枯れると、今度はサレプタというところに行って、やもめに養ってもらうようにと神様はエリヤに告げた。
サレプタは異邦の地であり、本来、誰かに養ってもらわなければならない側にいるやもめに、エリヤは自分の面倒を見てもらわなければならなかった。
これらの出来事が意味していることは何か?
それは、神様は神様に仕える者を鍛錬されるお方だということである。
神様は私たちが神聖にあずかるため、すなわち神様に似た者となるために、私たちを鍛えられる。
鍛錬には当然、苦しみや悲しみが伴うが、後になると義という平和に満ちた実が結ばれるのである。
神に仕える者にされるプロセス
エリヤが神に仕える預言者とされるために、まず求められたことは、神の言葉に従うことである。
エリヤは救いの情熱によってアハブ王の前に立ったが、神様の御心は、今すぐにエリヤがバアルと対決することではなかった。
それどころか「あなたを烏によって養わせる」と思ってもみなかったことを告げられた。
おそらくエリヤは、なぜ烏になんて養ってもらわなければならないのかと疑問を持ったかもしれないが、それでもエリヤは、神様の言葉を聞いて直ちに行動し、ケリト川に向かい、そこにとどまった。
また、ケリト川の水が枯れて、今度はサレプタに行くようにと言われた時もエリヤはその通りに行動した。
私たちには、自分が理解できないこと、納得できなことは、たとえそれが御言葉であっても抵抗してしまう自我がある。
しかし、私たちが御言葉につまずく時、思い起こすべきことは、神様の御言葉に従うなら、そのすべての責任を神様が負ってくださるということである。
この時エリヤは、プライドと情を打ち砕かなければならなかった。
エリヤからしたら、不浄の動物である烏に養われることはとても屈辱的なことだっただろうが、イスラエル人としてのプライドを捨てて、御言葉に従った。
また、やもめに養われなさいというのは、残酷であり、無慈悲なことのように思える。
しかしエリヤは、そのやもめがどれだけ貧しい立場にあるのかを知った上で、自分に食べ物を与えるように求めた。
その結果、エリヤは神様が自分のことを養ってくださる方であることを、身をもって体験することになった。
神様はエリヤの情熱に待ったをかけ、エリヤのプライドを打ち砕き、徹底的に神を信頼することを学ばせた。
神に仕える者に求められるものは、何よりも、神を信頼する信仰である。