明らかにされた神の国の価値観
今読んだところに「地の塩、世の光」という言葉が出てきました。
この「地の塩、世の光」という言葉は、私にとってとても馴染みのある言葉です。
私が通っていた大学にスクール・モットーという教育理念を表す標語があり、そのスクール・モットーとして掲げられていたのが「地の塩、世の光」という言葉でした。
今もそれは変わっていないようで、この言葉を聞くと、昔のことを思い出しますし、私の好きな聖書の言葉の一つでもあります。
ここでイエスは「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言っています。
イエスは「地の塩になりなさい」とか「世の光になりましょう」と勧めの言葉や命令の言葉として語ったわけではありません。
「地の塩である」「世の光である」と言われました。
つまり、これはイエスの宣言と言える言葉です。
イエスは「あなたたちは地の塩です、世の光です」と宣言したのです。
この箇所は山上の説教と言って、イエスが山の上で語った言葉が5章から始まって、7章まで書かれています。
この時、イエスの言葉を聞いていたのは、イエスの後に従って、山の上までついてきた弟子たちと、また、群衆と呼ばれる多くの人々です。
山上の説教全体を見渡してみると、素直に受け入れづらい言葉が並んでいます。
「貧しい者、悲しむ者、迫害される者は幸いである」
「敵を愛しなさい、完全な者になりなさい、狭い門から入りなさい…」
これらは明らかに、励ましや慰めの言葉には聞こえません。
私たちの価値観には馴染まないものであり、何か私たちに選択を迫るような言葉の数々です。
この時、群衆たちにとっては、イエスの言葉は理想論や現実離れした話のように聞こえていたと思います。
戸惑いや葛藤を覚える人々もいたことでしょう。
しかし、それこそイエスの狙いだったように思います。
この時イエスが語ったのは、神の国の価値観についてです。
そういうことを語りながら、人々に対して「私の弟子として生きていきたいのか、それとも私から離れて生きたいのか」ということを暗に問いかけていたのではないでしょうか。
「あなたがたは本当に私に従うつもりがあるのか」と。
そうだとすると、それから2000年経った今、私たちが問われていることは「本当にイエスの弟子として、イエスの名を背負って生きていきたいのかどうか」ということなのでしょう。
自らの中に神の国の価値観を、どのように反映させていくのかということです。
ここで勘違いしてはならないのは、イエスはこれらの言葉を救いの条件として語ったわけではないということです。
「それができないのであれば、救われない」ということではなく、救われた者の生き方について教えています。
あくまでもイエスは、神の国の価値観を教えているのであり「神の国に生きる者として、どのように生きていくのか」ということを明らかにしているのです。
すでに意味のある存在として
今日の箇所は、イエスの弟子として、神の国に生きたいと願う者にとって、その大前提となる言葉です。
それが「あなたがたはすでに地の塩であり、世の光である」ということです。
「あなたがたは地の塩である、世の光である」という言葉からまず言えることは何でしょうか?
それは「私たちはすでに意味のある存在である」ということ。
塩や光というのは、大昔からとても大切で貴重なものでした。
塩は世界で最も古い調味料だと言われていて、昔から時代や場所を問わず、調味料の中で、塩が一番中心的な存在でした。
特に古代の世界においては、塩というのはとても高価で、貴重なものでした。
塩はお金の代わりに使われており、古代ローマでは、役人や兵士の給料が塩で支払われていたそうです。
また、光は創世記の1章を見ると、神様が一番初めに語った言葉の中に出てきます。
その言葉が「光あれ」というものです。
神様が暗闇の中に光を与えるところから、この世界は形作られていきました。
創世記1章には、直接、塩に関する言及はないが、海の起源について書かれています。
神様が二番目に語った言葉として出てくるのが「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」という言葉です。
そこに海ができ、海の水の中に混じっている塩を取り出したことで、人間と深く関わるようになりました。
このように塩も光も、神様によって与えられたものであり、人類の歴史に欠かすことのできないものとして、長い間、存在してきました。
私たちが塩であり、光であるという言葉は、すでに私たちは神様から造られた大切な存在であるということです。
塩と光に関する言葉の中に、少しプレッシャーを感じるようなところがあります。
13節「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
16節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「何の役にも立たない、外に投げ捨てられる、人々に踏みつけられる」という言葉は、塩としての立場から聞くと、だいぶ厳しい言葉です。
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」というのも、立派な行いをしなければならないと、プレッシャーを感じてしまうような言葉です。
「地の塩、世の光」の言葉を聞きながら「私には塩気がないのではないか、光を放つことができていないのではないか」と自分の足りなさを責めるような気持ちになってしまうかもしれません。
しかし、イエスは「役に立たない者や行いに欠ける者は、神の国には必要ない」と言っているわけではありません。
これは、救いの基準についての話ではなく、神の国の価値観です。
つまり、私たちは塩と光として「神の国において、どのように生きるのか」ということを問いかけられているのです。
この地と世において
地の塩、世の光という言葉は、塩と光という言葉の方に注目が行きやすいが、実は地と世という部分も同じように大切です。
イエスは「あなたがたは塩である、あなたがたは光である」と言ったわけではありません。
この地において塩である、この世において光であると言われました。
この地と世という言葉は、この世界、社会のことです。
塩は、何かに溶け込んで初めて、塩としての役割を果たすことができるのであり、光は暗闇の中で輝くことによって初めて、光としての役割を果たすことができます。
つまり、私たちが地の塩、世の光として存在することは、この世界、この社会との関わりがあって初めて成立することです。
この世界は、神様が造った世界であると同時に、人間が築いてきた世界でもあります。
だから、世界には神様が与えてくださっている素晴らしさが散りばめられていますが、それと同時に、人間の罪がもたらしている痛みや悲しみもあります。
そういう世界において、私たちはどう生きるのかということが問われているのです。
この世界から失われてしまっているものが、大きく二つあります。
一つは、神様であり、もう一つは、人間の尊厳です。
当時のユダヤ社会は、神様を見失っていた状態でした。
ユダヤ社会は、神様ではなく、律法という掟がイスラエル民族の土台になっていました。
律法自体は神様が与えた善いものですが、その律法によって神様を見失ってしまいました。
神様を見失った世界からは、人間の尊厳も失われていきました。
当時のユダヤでは、病人や体の不自由な人たちには、人間としての尊厳が全くありませんでした。
彼らは罪人だと指さされ、神に呪われていると嘲られました。
この世界に生きる塩と光に与えられている大きな役割が、この失われているものを取り戻すことにあると思います。
神様という存在と人間の尊厳を取り戻すために絶対に欠かせないものは、優れた能力や影響力ではありません。
塩として、光として、神様との関わりと共に、この世界、この社会との関わりの中で生きていくことです。
一昨年の10月から、私たちはサンドイッチカフェを始めたが、それはまさに、この世界、この社会との関わりに生きたいという思いから始めたことです。
カフェの理念は、まずは人々との接点を作ることであって、心から仕え、もてなすことです。
人々と関わり、この地域に少しずつ根ざしていく中で、じっくり時間をかけて信頼関係を築いていっているところです。
そういう関わりを通して、この世界に神様の愛が流れていくことを願っている。



