神100%、人間100%
新約聖書には四つの福音書がありますが、その執筆目的はすべて「イエスがメシアである」ということを明らかにするためです。
そのため、その主人公は当然イエスであり、イエスの誕生やあらゆる働き、十字架、復活などの出来事を記しながら「イエスはどのようなメシアであるのか」ということを伝えています。
イエスの誕生物語について、クリスマスの時によく読まれるマタイとルカの二つには、イエスの誕生シーンについて記していますが、マルコの場合は、イエスが登場するのは、ヨハネから洗礼を受ける話の中に出てくる、すでに大人になったイエスです。
ヨハネについても、やはりイエスの誕生物語については書かれていませんし、そもそも他の共観福音書と言われる他の福音書とは、かなり毛色が違います。
ヨハネの福音書の始まりは、かなり独特です。
ヨハネはイエスのことを「言」という単語で初めて登場させています。
そして、その書き出しは、旧約聖書の創世記の記述に重ね合わせるようにして始まっています。
なんとなく創世記の記述とリンクすることがわかると思いますが、ヨハネは、イエスは初めからこの世に存在していたのであって、また、イエスがこの世のすべてを造られた創造主であるということをここで伝えています。
これはつまり、イエスは神であるということです。
その後に続くのが、先ほど読んだ10節からのところですが、ここではまたヨハネは、別のことを強調して書いています。
10節には「言は世にあった。」、14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。
これらの記述を通して、ヨハネが伝えようとしていることは、イエスは人間であるということです。
人間としてこの世に来られたイエスです。
つまり、ヨハネがこの書物の書き初めに伝えようとしていることは、イエスは神であると同時に、人間でもあるということです。
イエスが神であり、人間であるというのは、ピザのようにハーフ&ハーフのようなことではありません。
100%神であり、100%人間であるのがイエスです。
この世に来られたイエス
このように、ヨハネが記したイエスの誕生物語というのは、神であるイエスが肉となって、私たちのもとに来られた、つまり、神であるイエスが人間となられたということを端的に伝えています。
イエスがどのような経緯で生まれてきたかという話はなく、神である独り子が肉体をとって人間となり、なお神であるという話は、キリスト教の理解を難しくしている一つです。
「天に神様が存在して、その神様がこの世界を造った」ということであれば、この壮大な世界を作った超自然的な存在がいるんだということで、まだ言っている意味はわかると思いますが、その神様が人間として生まれてきたとなると、ちょっと私たちの理解を超える話です。
神様は、ただ神様として私たちの見えないところに存在しているだけじゃダメだったのでしょうか?
神様が人間になったことを神学的な用語で「受肉」と言いますが、この「受肉」こそ、キリスト教の真髄だと言えます。
イエスがこの世に来られたという出来事には、人間を徹底的に肯定する姿勢と、人間への温かい目線があります。
つまり、受肉という概念は、この世界とそこに生きる人間を再評価するものなのです。
イエスが生まれてきた世について、ヨハネは1:5のところで「暗闇」だと言っているように、イエスが来られた世というのは、暗闇の世界でした。
この暗闇は、人間が作り出したものです。
もっと言えば、人間が神様を見失ったことによって生まれたものです。
罪が生んだ世界ということもできるでしょう。
そのように暗闇の世界を見ながら、神様がされたことが、独り子をこの世界に送るということでした。
暗闇の世界に来たのが、イエスでした。
リセットされなかった世界
日本のプロテスタントというのは、主にアメリカから流入してきたという経緯があるので、アメリカ的な信仰感とか世界観が強いです。
アメリカ的なキリスト教というのは、人間の罪をかなり強調します。
アメリカの歴史の中で、信仰覚醒運動(リバイバル)というのが何度か起こりましたが、その時に起こっていたことは、道徳的に退廃していた人々が自身の罪を悔い改めて、神様に向かっていく、立ち返るということです。
昔、ビリーグラハムというアメリカ人がいて、日本に来て東京ドームで大きな集会をやったことがありますが、彼が書いた本の中に「世界が燃えている」というタイトルのものがあります。
世界が燃えているというのは、人間の罪によって世界は燃えている、つまり、世界は絶望的な状況にあるということです。
だから、罪を悔い改めて、神に立ち返ろうという論調です。
この世は敵であり、希望のない場所、救いようのないところということになります。
しかし、受肉という出来事が示しているのは、この世界とそこに生きる人間を否定することではなく、肯定することです。
神は天にいたままで「燃え盛っているから早くこっちに脱出してきなさい」と言って、天国のような場所を用意して、私たちをそこに招くようなことはしませんでした。
また、ご自分が創造された世界を一旦リセットして、また新たに一からやり直すこともありませんでした。
イエスは、この暗闇の中にご自身の身を投じてくださいました。
暗闇の中で、もがき苦しむ私たちのもとに来てくださいました。
受肉によって確かに明らかになったことは、神はこの世界と人間を見捨ててはいないということです、
16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。
神は私たちが暗闇の世界の中で生きることができるように、イエスによって、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいました。
イエスが受肉という出来事を通して与えてくださった恵みは、私たちを徹底的に肯定してくださることです。
否定され、責められ、裁かれる暗闇の世界にあって、イエスは否定することなく、責めることなく、裁くことなく、私たちのもとに寄り添ってくださるお方です。
この恵みがあるからこそ、私たちは暗闇のように見えるこの世界の中にあっても、希望を持って生きていくことができるのです。



