牧師ブログ

「現実と希望の間で」

【マタイによる福音書11:2-11】

2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

「悔い改めよ、神の国は近づいた」

アドベントの期間、私たちはイエスの到来、すなわち、2000年前にイエスが人間としてこの地に生まれたこと、また、いつかイエスが再びこの地に戻って来られることに思いを向けています。

先週の礼拝では洗礼者ヨハネの話を分かち合いましたが、今日も引き続き、ヨハネに関する御言葉を分かち合っていきたいと思います。

当時のユダヤは、終末に対する強い期待がありました。
ユダヤ人はローマの支配の元で、社会的にも宗教的にも苦しみを受けていました。
600年間、ほとんどの間、他国に支配される状況が続く中でも、ユダヤ人は旧約聖書にある神様の約束を信じました。

それは、神がユダヤにメシアを送り、悪を滅ぼしてくださること、そして、ユダヤに正義の王国(神の国)を実現してくださるということです。
これが、ユダヤ人たちが待ち望んだ神の国です。
人々の関心は「神の国はいつ来るのか」ということに向けられていたわけです。

そういう機運が高まる中で、ユダヤに突如として現れたのが洗礼者ヨハネという人物です。
この時のユダヤは、預言者不在の時代が400年ほど続いていましたが、人々はヨハネの姿を旧約時代に活動したエリヤという預言者と重ね合わせました。
人々はヨハネのことを神様から遣わされた預言者として見たのです。

ヨハネが宣べ伝えたことは、一言で言えば「悔い改めよ、神の国は近づいた」というメッセージでした。
そのようにヨハネが悔い改めを呼びかけたのは、神様の最終的な裁きがもうすぐ行われるという確信があったからです。

ヨハネという人はユダヤ教の中でもかなり保守的なエッセネ派というグループに属していたと言われています。
エッセネ派の人々は、一般社会とは距離を置いて、砂漠や洞窟などで暮らしました。
彼らは快楽を邪悪なものとして拒絶し、情欲を避け、禁欲主義を貫いて生きていました。
社会=悪という強いイメージがあったのでしょう。

ヨハネは、世を清めるために悪を裁く正義のメシアが来ることを信じ、この世に審判を下される終わりの日が近いことを感じていたようです。
それで「悔い改めよ、神の国は近づいた」ということを人々に宣べ伝えていたのです。

ヨハネが語ったメッセージは、ユダヤ人たちが待ち望む神の国に対する期待と一致し、多くの人々がヨハネの元を訪れ、ヨルダン川で洗礼を受けました。

ヨハネの苦悩

しかしある時、ヨハネは突然、投獄されてしまいます。
当時、ヘロデ・アンティパスという人物がユダヤのガリラヤ地方を治めていましたが、このヘロデは、自分の兄弟の妻であるヘロディアという女性と略奪結婚をしました。
それを知ったヨハネは、ヘロデに対して直接「律法でそんなことは許されていない」と公然と批判したことで、投獄されてしまったのです。

ヘロデとしては、すぐにでもヨハネを殺したいと思ったが、ユダヤ人たちはヨハネを預言者として認めていたため、ヘロデは群衆を恐れ、しばらくヨハネを牢屋の中に閉じ込めることにしました。

突如として、ヨハネは預言者としての働きができなくなり、自由を奪われ、命まで危うい状況に追い込まれてしまいました。
その時のヨハネの苦悩が感じられる言葉が、今日の3節に書かれています。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

ヨハネが捕らえられてから間も無くして、イエスは公に宣教を開始し、ユダヤの中で多くのわざを行っていました。
ヨハネは牢獄の中で、そういうイエスに関する話を耳にしたが、今の自分の状況とイエスの姿を重ねながら、ヨハネの心にはある疑念が生じるようになりました。
それは「本当にイエスという方がメシアなのか」という疑念です。

ヨハネは弟子たちをイエスのところに送って「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせました。
この「来るべき方」というのはメシアを表す言葉で、ヨハネは本当にイエスがメシアなのかどうかを確かめようとしたわけです。

ヨハネがメシアに期待していたことは、この世の悪を正しく裁く王であるメシアです。
悪に打ち勝つ裁き主メシアです。

しかし、イエスがなさっていた働きは、ヨハネがイメージしていたメシアとはかなりかけ離れたものでした。
イエスは病人を癒したり、悪霊に取りつかれた人々を癒したり、人々を教えたりしていました。
それ以外にも、イエスは罪人たちと一緒に食事をしたり、「愛しなさい」とか「赦しなさい」ということを教えていました。

ヨハネは、神様に背く者に対して、メシアは厳しい裁きを与えるはずだと信じていたと思いますが、牢屋の中に聞こえてくるイエスの話は、癒しと憐れみを行うイエスの姿だったのです。

また、ヨハネは自分を捕まえたヘロデについても、メシアによって裁きが与えられて、間も無く解放されると信じていたかもしれません。
しかし、牢に入れられて1年くらい経っても、なかなかその時はやって来ませんでした。
依然としてユダヤはローマに支配されたまま、不法を働いた王も裁かれることなく、自分はずっと牢屋に閉じ込められたままでした。

ヨハネの苦悩は一言で言うと「神の約束は真実なのか?」というものです。
この言葉を聞くと、不信仰のように聞こえるかもしれないが、そうではありません。
不信仰ではなく、信仰者ゆえの苦悩です。
信仰があるからこそ、神様の約束を信じているからこそ、ヨハネはそのように苦悩したのです。

希望の見出せない世界で嘆く

それでは、ヨハネの弟子たちがイエスのもとに行った時、イエスはどのように応答したでしょうか?

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(4-6節)

イエスはご自分のことをメシアだとは答えませんでした。
その代わりに、メシアによってなされることを伝えました。

これらはすべて旧約聖書のイザヤ署の中にあるメシアに関する預言の言葉です。
イエスが、旧約聖書を引用しながら、ご自身が神から遣わされたメシアであること、また、どのようなメシアであるのかということを話されたのです。

これを見ると、メシアの働きは武力を用いてなされるものではなければ、権力を転覆させることでもないことがわかります。
イエスがなさった働きは裁きではなく、癒しであり、回復です。

人々が癒され、神様から造られた素晴らしい被造物として回復していくこと、これが私たちに対するイエスの働きであり、願いなのです。

その後、ヨハネがどうなったかというと、ヘロデによって首をはねられて、殺されてしまいます。
悪を行ったヘロデは、更なる悪を犯してしまったのです。
律法に基づいて、正しいことを指摘したヨハネが、その正しさによって命を落としてしまいました。

この出来事だけを見れば、ヨハネは悪に屈したように見えます。
結局、権力という大きな力の前に、正義は屈してしまうのでしょうか?
ヨハネは牢獄の中から神に祈ったと思うが、ヨハネの祈りは聞かれなかったのでしょうか?
神は沈黙してしまったのでしょうか?

私たちは目の前の現実を見ながら、自分の中にある神に対する期待との間に、大きなズレがあるように感じることがあります。
神様は私たちのことを愛していると言うが、今の生活を見たら、全然そうは思えない時があります。
祈っても何が変わるのか、何の意味があるのかと自問自答することがあります。

そういう辛く悲しい現実を見ながら、私たちは神様にこのように問いかけます。
「あなたは本当に生きて働いておられるのでしょうか?」
「神様の約束は真実なのでしょうか?」

これはヨハネの苦悩と同じように、決して不信仰の告白ではありません。
神を信頼したいからこそ、私たちはヨハネのように苦悩するのです。

私たちは今、現実と希望との間に生きています。
イエスが来られたのは2000年前のユダヤには、辛く悲しい現実が広がっていました。
人々は悪が裁かれて、神の国が到来するという期待を持っていましたが、現実を見たら、いつそれが実現するのか、本当にそんなことが可能なのかと問わざるを得ない世界でした。

しかし、イエスはそのように希望を見出せない世界に来られました。
イエスは、またいつかこの地に来られ、最終的な裁きを行い、その時、人々が期待した神の国がついに実現します。
これが、私たちに与えられている大きな希望です。

目の前の現実を生きる私たちは今、イエスに何を期待するでしょうか?
現実と希望との間で、私たちはどのように生きていくことができるでしょうか?