1年の始まりを告げるアドベント
今日からキリスト教のカレンダーでは、新しい年になりました。
私たちが普段使っているグレゴリオ暦に基づくカレンダーでは、1年の始まりは元日、1月1日ですが、キリスト教のカレンダーでは、今日が新年最初の日になります。
新年はアドベントという期間から始まりますが、今日がまさにその始まりの日です。
アドベントという言葉はラテン語に由来する言葉で、その意味は「到来」です。
何の到来かというと、イエスキリストの到来を指します。
今日からクリスマスまでの間は、特に「キリストの到来」に心を留める期間として、アドベントという期間が定められています。
「キリストの到来」という時、2つの到来があります。
1つは、2000年前にすでに起こったことです。
それが、クリスマスの出来事です。
今から2000年前のユダヤに、イエスが人間として生まれました。
これが、キリストの最初の到来です。
そして、二つ目の到来は、これから起こることです。
いつかははっきりとはわかりませんが、聖書はこの世界には終わりがあること、そしてその時、イエスが再びこの地に来られると伝えています。
これは「再臨」と呼ばれる出来事です。
アドベントの期間は、2000年前にイエスが来られたことを思う時であり、同時に、この世の終わりに、再びイエスがこの世界に来られることを思う期間でもあります。
アドベントはキリスト教会にとっては、1年の始まりを告げる時ですが、意味合いとしては「始まり」よりは、むしろ「終わり」に思いを向ける期間だと言えます。
突然の出来事
キリストの再臨について、聖書は大きく2つのことを明らかにしています。
1つは、キリストが再臨する時、それはこの世が終わる時であり、裁きが行われるということです。
もう1つは、再臨の時については、明らかにされていないということ、つまり、その日は突然やって来るということです。
今日分かち合うところに、36節では「その日、その時は、誰も知らない。ただ父だけが、ご存知である」、44節には「人の子は思いがけない時に来る」とあります。
このように、キリストの再臨の時期というのは、誰も知らない領域であり、思ってもみない時にやってきます。
「ある日、突然やって来る」ということについて、イエスは旧約聖書のノアの時代の話を引用して話しています。
ここで「ノアの時」という言葉は、厳密に言うと「ノアの日々」という意味です。
また「洪水になる前は」というところも、直訳すると「洪水になる前の日々は」という言葉が使われています。
これらの「日々」という言葉が意味していることは何でしょうか?
日々というのは、日常の重なりのことです。
1日1日が、日々重なり合って、1週間、1ヶ月となり、そしてそれが1年となっていきます。
2025年もあと1ヶ月になり、本当に1年経つのが早いなと感じますが、そのように日々、食べたり飲んだりを繰り返しながら、何ら変わらない毎日を過ごしていた時に、突然、起こったのがノアの時代の洪水でした。
当時の人々は、ノアが箱舟に入るその日まで、それまでと同じような日々を過ごしていた。
洪水が起こった日も、いつもと変わらない同じ日だと思って、過ごしていた時に突然、大洪水が起こりました。
ただ、実は神様は、いつ洪水が起こるのか予めノアに伝えておられました。
創世記を見ると、洪水が起こったのは、ノアの生涯の第600年、第2の月の17日だと記録されています。
その7日前、神様はノアに箱舟に入るように言われた。
そして、実際に7日後の第2の月の17日から40日間、雨が降り続き、この地に対する裁きが行われました。
ノアは洪水が起こるその日に備えて、日々、箱舟造りに取り組み、その時に備えていましたが、それ以外の人々は、ノアの生涯の第600年、第2の月の17日も、それまでの日々と同じように過ごしていました。
その日、その時は、突然やってきたのです。
そのように、今日もまた昨日までのように、ごく普通に思える日が、突然、社会や私たちの生活を大きく変える1日になることがあります。
私たちにとって身近なことで言えば、去年の1月に起こった能登半島地震であったり、またはもっと個人的な出来事だったりするかもしれません。
39節に「人の子が来る場合も、このようである」とあるように、イエスが再びこの地に来られる日も、突然やって来ます。
そしてその時、この世界に対する裁きが行われることになるのです。
忠実で賢い僕たち
それでは、私たちは来たるべきその日に対して、どのように備えておくことができるでしょうか?
イエスはこのように教えておられます。
イエスは「だから、目を覚ましていなさい。だから、用意していなさい」と言っておられます。
私たちは、イエスが再臨する日を特定することはできません。
思いがけない時にイエスはこの地に戻って来られます。
だからこそ、目を覚まし、用意しておく必要があるのです。
それでは、再臨の日に備えて、目を覚ましているというのは具体的にどのようなことなのでしょうか?
私たちはどのように準備しておくことができるのでしょうか?
マタイによる福音書の24章と25章には、この世界の終末とその時に起こる再臨について書かれているが、そこでイエスが繰り返し話していることがあります。
それが、主人に忠実な僕の話です。
3つのたとえ話が出てきます。
1つは、主人から言われた通りに使用人たちに食事を与えた僕について、イエスが忠実で賢い僕だと褒める話です。
この僕は、主人がいつ帰ってきてもいいように、備えていたからです。
また、花婿を迎える10人のおとめの話が出てきて、10人のうち、5人は灯火と火が絶えないように油も用意していたが、残りの5人は、油を用意していませんでした。
花婿の帰りが遅くなり、真夜中に帰って来たため、油を用意していなかった5人は急いで油を買いに出かけて行きました。
しかし、そうしているうちに花婿は家に入り、結局、油を用意していなかった5人は、家に入ることができませんでした。
花婿がいつ帰ってきてもいいように、準備していなかったからです。
そして、タラントンの話が続きます。
主人が僕たちに、5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金をそれぞれ預けて旅に出ました。
このうち、5タラントンを預かった僕と2タラントンを預かった僕は、そのお金を用いて、それぞれ5タラントンと2タラントンを稼ぎました。
それを知った主人は「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言って、2人を褒めた。
それに対して、1タラントンを預かった僕は、その1タラントンを地中に隠しておいて、主人が帰ってきた時にそのまま1タラントンを差し出しました。
そうすると主人は、その僕に向かって「怠け者の悪い僕だ」と言われました。
このタラントンの話はよく「神様から与えられた賜物を用いましょう」という文脈でメッセージされることが多いと思いますが、実は、イエスはそういう意味合いでこの話をしたわけではありません。
終末を備えるという話の中でイエスが語ったのが、このタラントンの話です。
今取り上げた3つのたとえ話は何を伝えているのでしょうか?
それは、主人がいつ戻ってくるかわからない状況の中で、主人がいつ帰ってきてもいいように準備しておくということです。
そういう者たちについて、イエスは忠実で賢い僕だと言っておられます。
つまり、私たちが目を覚ましていること、イエスの再臨の日に備えるということは、忠実な者として生きていくことです。
そこで求められていることは、主人に対する忠実さなのです。
日常生活
主人が僕たちに対して望んでいたことは、僕が立派に成長することでも、何か立派な成果を挙げることでもありませんでした。
タラントンの話についても、主人は単に僕がお金を稼いだことを褒めたわけではありません。
主人がいつ帰ってきてもいいように、忠実に生きていたことを褒めたのです。
ここで主人に忠実であるというのは、主人が語っている言葉に耳を傾け、主人の帰りを待っていることです。
それはつまり、当たり前のように過ぎていく日々を、神様に思いを向けながら生きていくことを言うのでしょう。
そのように、私たちが忠実であることが問われるのは、私たちの日常であり、いつもと変わらない日々です。
そうだとすれば、それは単に日曜日だけの話ではなくなります。
イエスが日曜日に再臨してくれればいいかもしれないが、それはわかりません。
確率はだいたい1/7くらいでしょうか。
私たちの関心は日曜日に関すること、単に日曜の礼拝や奉仕に対することでしょうか?
それとも、日々、神様と共に忠実に生きていくことでしょうか?
信仰を持って生きるというのは、何か特別なパフォーマンスを発揮することではありません。
信仰生活は日常生活なのです。



