牧師ブログ

「等身大の自分で」

ルカによる福音書18:9-14

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

等身大で生きられなくなる時

皆さんは、自分のことを正しい人間だと思うでしょうか?
おそらく、ほとんどの人が自分のことを正しい人間だと言い切ることは、難しいと思います。
正しいか正しくないかで言えば、正しくないという方を選ぶと思います。

それでは、自分が他人を見下していると思うかどうかといかがでしょうか?
これに即答で「はい、見下してます」と答える人はちょっとやばい人ですが、おそらく、ほとんどの人は「見下してはいない」と答えように思います。

ただ、残念ながら人を見下すということは「自分は正しい人間ではない」と思っている人にも起こることです。
私たちの人間関係の中で起こる問題の中に、この「見下す」ということに起因するものが多いように思います。

個人的な話ですが、私の好きな言葉が「等身大」と「正直」という言葉です。

このふたつ座右の銘のようにしている言葉で、大きく関わり合っている言葉です。
自分自身の心、自分の姿に正直になる時、私たちは背伸びして自分を大きく強く見せるわけでもなく、人前で縮こまって萎縮するわけでもなく「自分自身を生きる」ことができるのだと思います。

正直に、等身大で生きられるということは、神様の救いとも大いに関係があることです。
聖書が発している神様のメッセージというのは「あなたはそのままで素晴らしい」ということです。

みんな、見た目も性格も能力も財力も生まれ育つ環境も、あらゆることが違うので、人が一緒に集まると、その差が目につきます。
しかし「あなたはそのままで素晴らしい」のであれば、人と自分がどんなに違うところがあったとしても、今の自分を受け入れて、等身大の自分を生きていくことができるようになります。

これとは反対に、人を等身大で生きられないようにする悪魔の言葉があります。
それが「あなたはダメだ」という言葉です。
神様が「あなたはそのままで素晴らしい」と言っているのとは反対に、悪魔は「あなたはそのままじゃダメだ」と言って、私たちのことを責め、罪責感や羞恥心を抱かせます。

この「あなたはダメだ」という言葉は、その人の人格、存在を否定する言葉であり、人を見下す場面においてよく発される言葉の一つだと言えます。

このメッセージを何度も受け取っていると、等身大で生きていくことが難しくなっていくように思います。
自分で自分を責めたり、否定したりするうちに、本当の自分を隠すようになるからです。

この「人を見下す」ということの問題の深刻さは、これが無意識の中で起こるということにあります。
見下すつもりはなくても、自然とそういう言動をしてしまっていることがあります。

もちろん、クリスチャンもこれと無関係ではありませんし、むしろ、何かしらの宗教性を帯びている人の方が、自分の中に明確な正しさや基準のようなものがあるので、宗教的観点から人を見下していることがないか、注意が必要だと言えます。

胸を張って祈る人と背中を丸めて祈る人

イエスが語った今日のたとえは、イエスが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して語ったものです。
このたとえの中で、不名誉にも、人を見下している代表として出てくるのが、ユダヤ教の主要グループの一つ、ファリサイ派の人です。

ファリサイ派の人々が追求したことは、何と言ってもユダヤの律法に忠実であることです。
彼らが律法を守ることに拘った理由は、律法を忠実に守ることこそが、ユダヤ人としての純粋さを保つことだと考えたからです。
律法を忠実に守る人こそユダヤ人であり、それが彼らのアイデンティティとなりました。

たとえの中に出てくるファリサイ派の人は、このように祈りました。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』(11-12節)

祈りの中で「感謝します」と言っているように、この人が捧げた祈りは、感謝の祈りです。
その内容は、自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、徴税人のような者ではないということです。
これらは、私は「律法に違反するような者でない」という告白でもあります。

12節にある「週に二度断食すること」や「全収入の十分の一を捧げること」は、厳密には、律法が求めている以上のことでした。
律法でも断食について定められていましたが、それは年に一回、贖罪日という日に断食をするということだけでした。

ただ、ファリサイ派の人々は「律法を守りすぎるほど守ること」を敬虔さのしるしと考えたので、断食については、毎週(月)・(木)の二度、断食する習慣があり、これを律法のように守っていました。

また「十分の一を捧げる」ということも、律法の中に、全収入ではなく農作物や家畜の十分の一を捧げなさいという規定はありましたが、ファリサイ派は、律法の要求をさらに細かく、日常生活のすべてにまで適用し、全収入の十分の一を捧げることを求めました。

つまり、このファリサイ派の人の祈りを一言で言うと「私は律法を忠実に守ることができて感謝します」という祈りだと言えます。
この祈りの言葉から、この人が天に目を上げ、胸を張って祈っている姿が想像できると思う。

それとは対照的に、徴税人はこのように祈りました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」
この祈りは、悔い改めの祈りです。

この徴税人は、目を天に上げることなく、胸を打ちながら、悔い改めの祈りを捧げました。
「罪人のわたし」という言葉には、自分は律法に違反し、正しく生きられない人間であるという思いが込められているように思います。
神様の前に何も誇れるものがなかったので、彼はただ「神様、憐れんでください」と祈ることしかできませんでした。

この祈りの言葉から、この徴税人はファリサイ派の人とは対照的に、背中を丸めて下を向いて祈っている姿が想像できると思います。

自分を偽ることなく

イエスは、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈る姿を対比させながら、この二人のうち、義とされたのは、徴税人の方だと言われました。
そして、最後に結論のようにして語ったのが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉です。

神の国においては、高慢な者ではなく、へりくだる者、謙遜な者が義とされるということです。
ここで義とされるというのは、神様との関係が回復するという意味です。

ファリサイ派の人は、律法を遵守することでユダヤ人としての正統性を保つことができ、それが神の民として神に従うことだと考えました。
自分の頑張りと努力によって、自己を正当化しました。
律法を守ることが、自己正当化の手段となってしまっていたのです。

しかし、神様が願ったことは、単に律法を守るということではありません。
神様が求めたことは、人間が自分の正しさによって神様とつながろうとすることではなく、神様により頼むことです。

聖書が教えている謙遜さというのはどのようなものでしょうか?
一般的に謙遜と言うと、自分の能力や価値を低く評価したり、控えめに振る舞うことだと辞書でも説明されます。

日本的価値観として、そういうことを謙遜さとして表すことわざや慣用句がいくつかあります。
例えば「おかげさまで」とか「ふつつか者ですが」という言葉は、自分の力を誇示するのではなく、謙虚さを表す言葉です。
他にも「出る杭は打たれる」とか「能ある鷹は爪を隠す」という言葉も、能力を控えめに隠す姿勢を美徳とする日本的謙遜を象徴するような言葉です。

このように、日本では集団の和を乱さないとか、相手を立てるということが謙遜さであり、へりくだる姿勢です。
こういう姿勢も素晴らしいと思いますが、聖書が言っている謙遜さというのは、日本的謙遜さとは少し異なります。

たとえの中に出てきた徴税人のように、謙遜さというのは、神様の前で正直な自分でいられることです。
「自分はダメな人間です」と自分を否定することが謙遜さではなく、自分を偽ることなく本当の自分の姿で神様の前に立っていること、これがへりくだる者の姿です。
これはつまり、等身大の自分だと言えるでしょう。

神様の救い、神様の子供として生きるということは、等身大の自分で生きていくということです。
私たちは神様の前に立つ時、自分を偽ることに何の意味も見出せなくなります。

ただ、自分自身と向き合い、自分の思いを正直に受け止めるところから、神様の子供としての新たな人生が始まるのです。