マナー講座?
今読んだ場面は、ある安息日に、食事の席で起こった出来事について記しています。
その日、イエスはファリサイ派の議員の家で行われる食事の席に招かれていました。
議員というと、当時のユダヤでは再上流階級ですので、この時、食事に招待された人たちも、同じような立場の人々の集まりだったのでしょう。
当時のユダヤで、上流階級の家の食卓は、長椅子がコの字型に置かれていて、その席順には明確な序列があったそうです。
入り口から入って左側が上席(日本でいう上座)で、次が真ん中、そして右側が末席(下座)という順番でした。
イエスは家の中にながら、招待を受けて集まってくる人々を見ていました。
すると、あることに気付きました。
家に入ってきた人たちが次々と、上席を選んで座っていたのです。
上席に座るのは、その家の主人や主人の親友、そして特別な招待客たちです。
やってきた人々は「われこそは」と、主人に近い上席に自ら座っていきました。
そんな様子を見ながら、イエスは人々に向かって、あるたとえを話されました。
イエスは、婚宴に招待された時、自分より身分の高い人が招かれているかもしれないので、上席ではなく、末席を選んで座りなさい言いました。
そうすれば恥をかくことなく、面目を保つことができるのだ、と。
これだけを聞くと、単なるマナー講座のように聞こえてしまうかもしれません。
ただ、当然イエスは単に食事の席順や「謙遜であれ」という道徳的なお話しをしたかったのではなかったでしょう。
このたとえを理解するためのポイントは、イエスが持ち出したたとえが「婚宴」だったという点にあります。
婚宴や祝宴は、神の国を象徴的に表すものとして、旧約の時代から用いられてきました。聖書には他にも、イエスが婚宴について語っている話があるが、その場合、イエスが伝えようとしたメッセージは、神の国についてです。
神の国というのは、簡単に言うと、神様が主として治める世界のことです。
イエスがこの地上にやってこられたのは、この神の国を伝えるためでした。
当時のユダヤはローマに支配された状態で、時の権力者たちによって宗教的にも社会的にも、いろんな面で苦しみを味わっていました。
そんな社会の中で、イエスは「あなたたちを支配しているのは人間ではない。もっと大きな世界があるんだ、私が愛によって治める世界、それが神の国である。神の国はこの地ですでに始まっている。あなたたちは神の国の住人であり、神の子供である。」と語りました。
こういう話を福音として伝えました。
つまり、今日の場面でイエスは、食事の席の場を、神の国に重ね合わせながら、神の国についてメッセージを語っているのです。
われこそはと
その日、食事に招待された人々は、こぞって上席を選んで座っていきました。
上席から順番に席が埋まっていったということは、どういうことでしょうか?
それは、招待された人々が「自分こそ上席にふさわしい」と考えていたということです。
招待客は皆、自分こそ、この場に招待されるべき上級国民だと思っていました。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます」と言いながら家に入ったかもしれませんが、心の中では「自分は招かれるにふわさしい」と思っていたのです。
同じように、招待客は神の国においても、自分こそ招かれるべき者だと思っていたはずです。
自分は神の国に招かれて当たり前で、神の国でも上席に就くべき者だ、と。
イエスはこぞって上席を選んで座っていた人々を見ながら、彼らのそういう彼らの内心を見抜いていたのです。
そういう姿を見ながら、イエスは彼らのことを「高ぶる者」だと言われました。
イエスが言った「高ぶる者は低くされる」という言葉の「高ぶる者」というのは、自分こそ正しい人間だ、自分こそふさわしいと思い上がっている状態の人のことです。
また、低くされるというのは、実際にはそうやって思い上がっている人が神の国に入ること、神様の救いに与ることは難しいということです。
なぜなら、神様の救いというのは与えられるものであり、天国というのは招かれるところだからです。
救いは、社会的ステータスや能力など、一定の条件を満たすことでゲットできるような商材ではありません。
ただ、神様の側から与えられるものであり、私たちはそれを受け取る者です。
どんな人であっても、神様に招かれて初めて入ることができるのが、神の国です。
これこそが、神の国の最大の特徴です。
招待客がこぞって上席を選んで座っていたのは、彼らの中に、自分たちには選ばれる価値があると思っていたからでしょう。
食事の席に招かれ、上席に座るだけの社会的地位や権威を持っていると自負していたからです。
こういう考えは、地位や権威を持った上級国民だけのものではありません。
今の私たちの中にも自然と植え付けられている思考です。
仏教の世界に「因果応報」という言葉があります。
原因があって、結果があるという考えです。
これだけの点数を取ったから、この学校に入れる。
これだけの力を持っているから、この会社に入れる。
これだけのことをしたから、受けるのは当たり前だ。
こういう考えは、ある意味でフェアなことです。
努力もせず、頑張りもしない人が良い学校や会社に入って、高い給料をもらっていたら誰も納得しません。
ただ、神の国においては、そうではありません。
神の国は、因果応報の世界ではありません。
神の国に招かれるにふさわしい理由があって、神様は私たちのことを招いているわけではないからです。
他の人と比べられて、何かの理由で救いが与えられるのではありません。
こちら側の事情によらず、ただ神様が招いてくださるのが、神の国です。
これが、神の国の法則であり、大原則なのです。
お返しできない人の集まり
イエスはこの神の国の法則を、この食事の場をセッティングした主催者の人々にも語りました。
この食事の席に招待された人々は、おそらくユダヤにおいてある程度、社会的地位や権威がある人々だったでしょう。
ユダヤ人は余程、親しい者か気心が知れている者でなければ、容易に人と食事をしないそうです。
これは私たちも大体似たようなものだと思います。
でも、イエスは宴会を催す時は、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くように言われました。
それは、彼らにはお返しができないからです。
お返しする力がないからです。
つまり、イエスは「お返しができない人を招待しなさい」と言われたのです。
なぜそういう話をされたのでしょうか?
14節の終わりに「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とあるように、本当の報いは、最終的に神様から与えられるからです。
ただ、イエスは単に「人からの報いを求めてはならない」という話をしたかったわけではなかったと思います。
先ほどから話しているように、これは神の国の話です。
イエスが「お返しできない人を招待しなさい」と言われましたが、神の国はまさにお返しできない人たちの集まりです。
ユダヤにおいては、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちは、神の国に入ることができないと考えられていました。
そういう病気や障害がある人は、神様から選ばれていない人々だと見られ、神から呪われているとさえ言われました。
彼らには選ばれる理由はありませんでした。
しかし「自分には選ばれる理由がありません、お返しするものなど何もありません」という人たちこそ、神の国に招かれるのです。
なぜなら、全くお返しするものがないということは、ただただ与えられるものを受け取ることしかできないからです。
神の国、神様の救いは、お返しができない、もっと言えば、お返しする必要がないものです。
そもそも神様は、私たちに見返りなんか求めているはずがありません。
だから、私たちはただただ神様が与えてくださるものを感謝して受け取ればそれでいいのです。
そうやって神の国において神様の子供として生きていく時、私たちは人からの報いを求める必要がなくなっていきます。
因果応報の世界で、何かに縛られて生きていく必要がなくなっていきます。
私たちはすでに、神様の救いという素晴らしい永遠の報いを今、受け取っているのです。



