牧師ブログ

「今をどう生きるのか」

【ルカによる福音書12:32-40】

32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

再臨に対する緊迫感

これは、イエスが再臨について語っているところです。
2000年前、イエスは死から復活した後、天にあげられましたが、イエスは再びこの地に戻って来られると約束されました。
教会は2000年間、イエスの再臨に対する信仰をもって生きてきました。

パウロの初期の手紙を見ると、パウロ自身、自分が生きている間にイエスが再臨することを信じていたと伺わせる言葉があります。
パウロが書いたⅠコリント書の最後に「マラナタ」という言葉があります。
これは「主よ、来てください」という意味で、祈りの時に使われていた言葉だったと言われています。

初めの教会は、今すぐにでもイエスがこの地に戻って来られるという緊迫感を持って、祈り、また、福音を伝えていたことがわかります。

しかし、イエスが天にあげられてから10年が経ち、50年、60年が経っても、イエスは来られませんでした。
それで、使徒ペトロが書いた手紙の中には「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」と、当時のユダヤ人たちがイエスの再臨を疑っていることを窺わせる言葉も出てきます。
それからさらに1000年が経ち、2000年が経ちましたが、イエスはまだ再臨していません。

皆さんは、普段、再臨ということをどれほど意識して生活しておられるでしょうか?
時間が経てば経つほど、再臨に対する緊迫感はどうしても薄れていくように思います。
「本当に再臨はあるのか?」という思いも、心のどこかにあるかもしれません。

それでは、いつ来られるかわからないイエスの再臨を信じることにどんな意味があるのでしょうか?

思いがけない時に来る

聖書は確かに再臨について語っていて、イエス自身が約束していることでもあります。
ただ、聖書が再臨についてわかることは、それほど多くはありません。

例えば、イエスが再臨する時は世の終わりであり、神様の裁きがあること、また、この世界で愛が冷え、大きな争いが巻き起こったり、偽キリストが現れたり、混沌とした世界の中にイエスが来られることなどです。

私たちは、それがいつなのかということをできれば知りたいと思うでしょう。
つい最近の話ですが、7月5日に日本で大災害が起こるという噂が広まりました。
ある漫画家の方が、漫画の中で東日本大震災の時期を予言していたということで、今回もそれなりに騒ぎになりました。

古くは、ノストラダムスの大予言というのもありました。
1999年7月、空から恐怖の大王が降ってくるという予言があって、その時も日本中が大騒ぎになりました。

どちらも何事もなく、過ぎ越しましたが、こういう噂は「何年の何月何日」というように、日付が明確になっている方が、もっと緊迫感があって信じられやすいように思います。

これと同じように「イエスの再臨」についても、明確な時期がわかっていたら、私たちはその時に備えられるのにと考えるかもしれません。
ただ、聖書には再臨がいつ来るのかということについては、明らかにされていません。
神様は、その日、その時を意図的に明らかにされなかったようです。

今日の本文の40節を見ると「人の子は思いがけない時に来るからである」と書かれています。
人の子というのはイエスのことですが、イエス自身、私は思いがけない時に来ると言っています。

このことについて、今日の場面で、イエスは二つのことにたとえています。
一つは「婚宴から帰ってくる主人」です。

36節から38節までを見ると、婚宴からいつ帰ってくるかわからない主人を待つ僕の話が書かれています。
当時の習慣によると、ユダヤの婚宴は一週間ほど続いたそうです。
そのため、いつ主人が婚宴を終えて、家に帰ってくるのかわかりませんでした。
真夜中に帰ってくるかもしれないし、明け方かもしれません。
そのため、僕は主人がいつ帰って来てもいいように、備えて待っていなければなりませんでした。

また、もう一つのたとえは、39節にある「家に押し入る泥棒」の話です。
泥棒というのは、当然、いつ来るかわかりません。
そのため、出かける時は家の扉を閉め、鍵をかけておいたり、今だと監視カメラを取り付けたりして、防犯する家もあると思います。

このように、イエスは再臨について「それがいつ起こるのかわからない」ということを重要なメッセージとして明確に語っています。
つまり、再臨を信じる信仰において「それが思いがけない時に起こることを信じること」が、再臨の信仰だということです。

再臨のことを考えれば考えるほど

日本自体が、地震や台風など自然災害が多い国ですが、いつ起こるかわからない自然災害に対して、私たちは備える必要があります。
いつ起こるかわからない事柄に対して、私たちが問われていることは何でしょうか?
それは「今この時、どうするのか」ということです。
いつ起こるかわからない将来から逆算した今、この瞬間が大切だということです。

36節には「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」とあります。
これは、将来どうのこうのではなく、今、どうしておくべきかという「現在」に関する勧めです。

40節にある「あなたがたも用意していなさい」というのも、同じことです。
いつ来ても、いつ起こってもいいように、その日にその時に備えて、今、用意しておきなさいということです。

私たちがイエスの再臨を信じて待ち望むということは、言い換えれば「今をどう生きるのか」という問題なのです。
再臨について、聖書からその時どんなことが起こるのかを事細かく把握している人もいると思います。

しかし、再臨を信じる信仰において最も重要なことは、再臨の詳細ではなく「今をどう生きるのか」ということだと思います。
再臨を考えれば考えるほど、今現在に思いを馳せるようになります。

先週「天に富を積む」という話をいました。
「天に富を積む」というのは、自分のためだけに溜め込むのではなく、持っているものを分かち合いながら、支え合う生き方だと話しました。

その話の続きとして書かれているのが、今日のところです。
34節までは「天に富を積む」という話があって、35節からいきなり、再臨の話が始まります。

この2つの話は一見、何の関係もないように見えます。
この2つの場面が、時間的に続けてあった話かはよくわかりませんが、おそらく、この福音書を書いたルカは、この2つの話をあえて続けて記しているように思います。
天に富を積む話は、今をどう生きるのかを問いかけてくる再臨と密接につながっている話です。

再臨がいつ起こるかわからないからこそ、私たちは今、この時をどう生きるのかが問われています。
自分のためだけに蓄えて生きる生き方が、それとも、天に富を積みながら生きる生き方か、その選択は私たちに委ねられています。