悪魔の狙い
先週の水曜日は「灰の水曜日」(Ash Wednesday)と言って、その日から四旬節(レント)と言われる期間に入りました。
レントは、イエス様の復活を祝うイースターの前の日曜日を除いた40日間続きます。
この期間は毎年、イエスの十字架の死とその受難を覚える時として定められています。
この40日という日数は、イエスが40日間、荒野で断食したことに由来していると言われています。
それで、レントに入った後の最初の日曜日、多くの教会では、イエスが荒野で誘惑を受ける御言葉が分かち合われます。
この出来事は、イエスの公の生涯が始まる直前に起こりました。
イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時、イエスの上に聖霊が降されました。
その後イエスは、荒野へと導かれ、そこで40日間、断食をしながら過ごしました。
この間に、イエスは悪魔から誘惑を受けました。
この時、イエスを荒野へ導いたのは神様でした。
イエスが洗礼を受けた時、注がれた聖霊に導かれて、荒野にやってきました。
そして、40日間、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたのです。
このように、イエスは聖霊に導かれた結果、悪魔から誘惑を受けました。
つまり、この出来事には明らかに神様が関わっているということです。
なぜ神様はそんなことをしたのでしょうか?
神様は、私たちを誘惑にあわせるようなお方なのでしょうか?
このことを考える時に、ヒントになる御言葉がある。
ここで、神の子というのはイエスのことです。
イエスがこの世に現れた大きな目的の一つは、悪魔の働きを滅ぼすことにありました。
イエスは、悪魔による支配、悪魔の働きを終わらせるために、この世に現れたお方です。
新約聖書を見ると、イエスが悪霊を追い出す話がよく出てきます。
イエスにとって、悪霊を追い出すことは、ただ人々を癒して、助けてあげることだけに意味があったのではありません。
悪霊というのは、人間を神様から引き離して、この世界を支配しようと働く存在です。
悪魔は神様に代わって、自分がこの世界を支配しようとします。
そのために、人間を神様から引き離そうとするのです。
悪魔が人間を神様から引き離すために働くとしたら、イエスの宣教というのは、神様から離れてしまった人間を神様のもとに導くことにあります。
悪魔の目的は、ただ私たちに罪を犯させたり、道徳的に悪いことをさせたりすることではありません。
悪魔の狙いは、私たち人間を神様から引き離して、自分の支配のもとに置くことにあるのです。
悪魔の誘惑「その1」
イエスが受けた誘惑を見ても、そういう悪魔の狙いが現れています。
イエスは40日間の断食を終えた後、悪魔から、三つの誘惑を受けました。
一つ目は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
二つ目は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えるから、わたしを拝みなさい」
三つ目は「天使が守ってくれるから、神殿の屋根から飛び降りてみなさい」
というものです。
まず、1つ目の「石をパンになるように」という誘惑ですが、そもそも石をパンに変えさせようとすることは誘惑なのでしょうか?
石をパンに変えることが、神様に逆らうこととは思えません。
むしろ、40日間、断食した後で、お腹が空いている状況で、石をパンに変えられたら素晴らしいことではないでしょうか。
なぜこれが誘惑なのでしょうか?
悪魔の狙いは何だったのでしょうか?
それは、この誘惑に対するイエスの答えを見ればわかってきます。
この誘惑に対して、イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えました。
ここからわかることは、悪魔の狙いは、人をパンだけで生きるようにさせることにあったということです。
ここで「パン」というのは、食べ物だけではなく、私たちの体や心を満たしてくれるあらゆるもののことだと言えるでしょう。
悪魔の誘惑はこうです。
「あなたがこんなに辛い思いをしているのに、神様はあなたを助けてくれないの?」
「あなたには、石をパンに変える力があるでしょ。だったら、今すぐ自分でパンを得ればいいじゃないか。」
「今のあなたに一番必要なものはパンでしょ。パンさえあれば、あなたは生きていけるんだよ。」
この誘惑のポイントは「自力」です。
悪魔は私たちに自力で生きていけるように、唆します。
そのように、私たちがパンばかりを求め、パンだけで自分の人生を満たし始めるとどうなるでしょうか?
「ああ、別に神様なんていらないんじゃないか?」
「神様がいなくても、十分にやっていけるじゃん」
このように、悪魔は私たちを神様から引き離そうと働いています。
悪魔の誘惑「その2」
次に、イエスが受けた2つ目の誘惑は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えるから、わたしを拝みなさい」というものです。
悪魔は、パン以上のもの、この世界のすべての権力と繁栄を与えるから、私を拝むようにとイエスを誘惑しました。
これは、いかにも悪魔らしい誘惑です。
ここで悪魔は「私を拝みなさい」と言っていますが、私たちは悪魔のことを悪魔だとわかって拝むわけではありません。
いつの間にか、わからないうちに悪魔を礼拝するようになっていきます。
このことは、旧約時代のイスラエルの民の歩みに表されています。
モーセの時代、イスラエルの民は、エジプトを脱出した後、神様の約束の地であるカナンというところで生活するようになりました。
このカナンの地で、イスラエルの民は神様から離れていきました。
もともとカナンというところでは、バアルという神が礼拝の対象でした。
バアルは、農作物を豊かに与えたり、雨を降らせたりする、繁栄を約束する神です。
この時、イスラエルの民は、バアルのことを悪魔だと思って拝むようになったわけではありません。
イスラエルの民がカナンでの生活を始めた時、多くは農業をしながら生計を立てるようになりました。
農業の世界は、自然を相手にするものなので、イスラエルの民はバアルという神に自然に仕えるようになり、主なる神様から離れて行きました。
悪魔は私たちをこのように誘惑してきます。
「神なんかを礼拝して、何の意味があるの?」
「神に仕えて生きているのに、なんでそんなに貧しく暮らしているの?」
「私に仕えて生きる方がもっとたくさんの物を得ることができるし、自由で幸せな人生を送れるよ」
この誘惑のポイントは「物欲」。
悪魔は、私たちの目に見えるものがすべてであるように唆すのです。
悪魔の誘惑「その3」
3つ目の誘惑は「神殿の屋根から飛び降りてみなさい、そうすれば天使があなたを助けてくれる」というものです。
イエスは、2つ目の誘惑に対して「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」という御言葉によって、悪魔の誘惑を退けました。
それで悪魔は「じゃあ、あなたが仕えている神様の使いは、何があってもあなたを助けて、守ってくれるはずでしょ」と、屋根から飛び降りるように言いました。
悪魔は、本当に神様を信じる価値があるのかどうか、テストさせようとしたのです。
私たちが神様のことをテストするようになると、どうなるでしょうか?
神様にいつも100点の答えをもらいたいと願うようになります。
でも当然、私たちの人生はいつも自分の思い通りに進んでいくわけではありません。
そうしていくうちに
「ああ、神様は私の思いに応えてくれなかった」
「神様に祈っても、何の変わらないないじゃん」
このような思いを抱くようになるでしょう。
悪魔は、別に私たちが罪を犯さなくても、このように思わせることができれば、大成功です。
私たちが神様に不信感を持って、信頼関係を壊すことが狙いだからです。
悪魔の狙いは、そうやって私たちが自分の力で生きることを決断し、私たちを神様から引き離すことにあります。
この時、イエスは聖霊に導かれて誘惑を受けることになりましたが、これはイエスに与えられた特別なものです。
神様は私たちを誘惑にあわせるようなお方ではありません。
私たちを誘惑に合わせて、私たちの信仰をテストするようなお方ではありません
もし、私たちが信じる神が私たちを誘惑する神であるならば、それは聖書が伝えている愛の神様とは馴染みません。
私たちを誘惑するのは、悪魔です。
しかし、その誘惑に完全に打ち勝ったお方がいます。
それが、イエス・キリストです。
イエスは、死に打ち勝ち、復活し、悪魔に完全に勝利されました。
それによって、悪魔の敗北は決定的となりました。
今、この世において悪魔の働きというのは、最後の悪あがきのようなものと言えるでしょう。
私たちがこの神に仕える人生でいいのかと悩んだり、疑ったりすることは、確かに悪魔の誘惑かもしれませんが、決して意味のないことではありません。
自分の人生に深く向き合う良い機会とも言えますし、むしろ、真剣に一度、そういうことを考えてみる必要があると思います。
悪魔が私たちを神様から引き離そうと働く時、私たちはむしろ、もっと神に近づき、神を信頼するチャンスなのかもしれません。