牧師ブログ

「等身大で生きたい〜本当の自分を受け入れつつ〜」

【コリントの信徒への手紙Ⅰ12:1-11】

1兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
2あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
3ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
4賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
7一人一人に““霊””の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8ある人には““霊””によって知恵の言葉、ある人には同じ““霊””によって知識の言葉が与えられ、
9ある人にはその同じ““霊””によって信仰、ある人にはこの唯一の““霊””によって病気をいやす力、
10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
11これらすべてのことは、同じ唯一の““霊””の働きであって、““霊””は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

どのように使うのか

パウロはこのセクションで「霊的な賜物」について語っています。
「霊的な賜物」というのは、簡単に言えば、神様から与えられたギフトのこと。
与えられたということは、そこに自分の努力や頑張りは関係ありません。

この手紙は、パウロがコリントという今のギリシャにある地域のクリスチャンたちに送ったものです。
コリント教会は、霊的な賜物を持った人がたくさんいたようです。

8〜10節の中で、いろいろな賜物があげられている。
知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力

霊的な賜物には、いくつかの特徴がある。
1つは、それらは霊によって与えられたものであるということ。
「霊によって、霊によって」と繰り返されているように、聖霊によって与えられたもの、神様から与えられたものが、霊的な賜物です。

もう1つは、霊的な賜物には力があるということです。
「力、力」という言葉が繰り返されているように、霊的な賜物は力です。
私たちは、人それぞれいろんな力を備えていますが、霊的な賜物はただの力ではなく、神様から与えられた力です。

私たちは、成長しながらいろんな能力や資質を身につけていきます。
また、神様からは霊的な賜物という力が与えられています。
そういう力を使って、私たちは何かを新しく生み出したり、人に影響を与えたりすることができます。

力は自分や周りのために使うこともできる一方で、悪いことのために、人を傷つけたり、コントロールしたりするためにも使うことができてしまいます。
そういう意味で、力というのは要取扱注意です。

「力を合わせる」という言葉があるように、協力することもできますが、反対に、ある力とある力が対立したり、分裂していくこともあります。

そうであるならば、力というのは、ただたくさん身につけることが重要なのでありません。
それらを「どのように使うのか」ということが、私たちにいつも問われていることだと思います。

コリント教会には、霊的な賜物を持った人が多かったようです。
パウロが送ったこの手紙を見ると、コリント教会はその霊的な賜物によって、どうやら対立や分裂が起こっていたようです。

それでパウロは、「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と言いながら、伝えようとしているのです。

いろいろある

霊的な賜物についてパウロが言っていることの1つは「いろいろある」ということです。
4節に「賜物にはいろいろありますが…」とあるように、霊的な賜物には、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力など、ここでは挙げられていないものも含めて、いろいろあります。
賜物がいろいろあるならば、それらの賜物を使った務めや働きもいろいろです。

私たちは、人それぞれ持っている能力や資質が違います。
いろいろあるのです。

ただ、この社会で問われることは「いろいろある」ということよりも「あるかないか」ということだと思います。
「あなたはどんな力を持っているのか」「どういう役に立つのか」と。
この世界は、力が物をいう世界であり、力によって、左右されるだと言えます。

だから、私たちはどうしてもそこで人と比べてしまいます。
誰かを見ながら「あの人はすごいな」と思う時もあれば、反対に「なんでこんなこともできないのか」と上から目線になってしまうこともあります。

ただ「あるかないか」、「どれくらいあるか」を比べることはほとんど意味がないことです。
比べ始めると、人よりも上に立って自分の力を誇ろうとするか、反対に「自分はダメだな」と自分を責めることになります。

聖書が言っていることは「いろいろある」ということです。
パウロが「ある人には」「一人一人に」という言葉を繰り返し使っているように、自分が特別に持っているものもあれば、自分にはないものを持っている人もいます。
人それぞれ、いろいろなのです。

それは単純に、与えられているものが違うからです。
いろいろな賜物があるから、務めや働きもいろいろあります。
だから、みんなそれぞれ、いろいろな仕え方があるのです。

本当の自分自身

「いろいろある」ということと同時に、もう1つ。パウロが繰り返し語っていることがあります。
それが「同じ神様」という言葉です。

4〜6節のそれぞれ後半を見ると、同じ霊、同じ主、同じ神と書かれています。
賜物や務めにはいろいろあるが、それを与えているのは、同じ神様です。
同じ神様が人ぞれぞれに、いろいろなものを与えてくれているのです。

いろいろあるから人と比べてしまうこともありますが、いろいろあるからこそ、お互いに足りないところを補い合うこともできます。
いろいろな働きのために、仕え合うことができるのです。

そこで大切なことがあります。
それが、今日のメッセージのタイトル、「等身大で生きる」ということです。

等身大というのは、自分自身のことです。
自分自身を生きるためには、まず、自分のことを知らなければなりません。

皆さんは、自分自身のことをどのらい理解しているでしょうか?
自分のことは自分が一番よくわかっていると考えるかもしれないが、そうとは限りません。
人から言われて初めて自分について気づいたり、理解したりすることもあります。

自分のことを知るだけでは十分ではありません。
本当の自分を知って、自分自身を受け入れていく作業が必要です。

もちろん、これは簡単なことではありません。
本当の自分の姿を知って、自分がもっと嫌いになってしまうこともあるかもしれません。
本当の自分を隠したくなることもあるかもしれません。
1人ではなかなか難しいことでしょう。

お互いに補い合いながら

そこで、神様の登場です。
神様は、嫌いな自分、隠したい自分、そういう本当の姿をすでに受け入れてくださっています。
人前には出せない自分であっても、神様は私という存在そのものを大切に思ってくださるお方です。

そうやって、本当の自分を知り、自分自身を受け入れていくことで、自分がどのように仕えることができるのか、ということもわかってくるのです。
自分の仕え方がわかるようになると、何を助けてもらうべきかもわかってきます。

一般的に「成長」というと、大きくなることや、力がつくこと、できることが増えることを言います。

ただ、人間として生きていく限り、あらゆる力を持つことはできません。
全てのことをうまくできるようになることは、人間には絶対に無理なことです。

そうだとすれば、本当の意味で、私たちが成長するとはどういうことでしょうか?
それは、本当の自分を受け入れられることだと私は思います。
できることもできないことも、好きなところも足りないところもすべてひっくるめて、それが自分自身だと受け入れることです。

もちろん、それには時間が必要でしょうし、いろいろな経験も必要だと思います。
そうやって等身大で生きるようになれた時、私たちはもっと誰かの必要を感じ取ることができるのでしょう。
そして、喜んで仕えることができるのだと思います。

お互いに補い合って生きていくこと、これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。