牧師ブログ

「モンステラの秘密」

【マルコによる福音書4:26-29】

26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

神の国のたとえ

この礼拝堂の中で、私がいつも不思議に思っているものがあります。
それが、後ろにある、あの観葉植物です。

私が6年前に金沢に来た時には、すでにここに置かれていて、今までずっと私たちと一緒に礼拝を捧げてきました。
これまで、あれが何の植物なのか分からなかったが、昨日、Googleレンズで調べてみたら、どうやら「モンステラ」みたいです。

私はあまり植物を育てるのが得意ではなくて、あのモンステラも、これまであまりちゃんとお世話できていなくて、何週間かお水をあげない時もありました。
でも、不思議と枯れることなく、6年以上、生き続けています。
なんで生き延びて来られたのか不思議ですが、今また、茎が生えて新しい葉っぱが出てきています。

あのモンステラが、この6年間、私にお世話されながら学んだことがあると思います。
それは、人間は頼りにならないということです。
太陽にも当ててくれないし、水もちゃんとくれない。
だからこそ、もっと強く育ったのかもしれません、、、

何でこんな話をしているかというと、それは、キリストは神の国もそういうものだと言っているからです。
先ほど読んだ聖書の言葉は、キリストが神の国について語っているところです。
キリストは神の国について、よくたとえで説明しました。

聖書の中で、神の国という概念は、とても重要なものです。
キリストは「神の国は近づいた」と言って、宣教を始めたように、キリストが宣べ伝えたことの一つは、神の国についてでした。

この神の国という言葉は、聖書では他に、天の国とか、御国という言葉でも出てきます。
私たちは天の国と聞くと、死後の世界をイメージする思います。
ただ、神の国というのは、死後の世界に限った話ではありません。

神の国は英語だと「heaven」ではなくて「kingdom of God」です。
これは「神様の支配」とか「神様の統治」を意味する言葉です。

つまり、キリストは「神様がどのような形でこの世界を導いているのか」「神様はどのようにこの世界で働いているのか」、こういうことを明らかにするために、神の国の話をしているのです。

It’s automatic

今日取り上げる神の国のたとえは「土に蒔かれた種」のたとえです。
話の内容はこうです。
人が土に種を蒔くと、種は芽を出して成長しました。
でも、どうしてそうなるのか、種を蒔いた人は分かりません。
土はひとりでに、実を結ばせるからです。

このたとえの中で、土に蒔かれた種は「神様の言葉」のことです。
つまり、種が蒔かれるというのは、人が神様の言葉を誰かに伝えることで、種が成長して、実を結ぶというのは、神様の言葉を聞いた人が、救いへと導かれることです。

この時、神様の言葉を伝えた人は、神様の言葉を聞いた人がどうやって救いへと導かれていくのか、よく分かりませんが、このように人々は救いに導かれるのだと、キリストは語っています。

ここでのポイントは「ひとりでに実を結ばせる」ということです。
「ひとりでに」という言葉は「勝手に」とか「自然に」という意味ですが、この言葉はもともとの言語で、英語で「automatic(自動的)」を意味する言葉が使われています。
種は、自動的に成長するということです。

つまり、蒔かれた種は、土に蒔かれる時点で、成長するように設計されています。
種は、ただ生きているのではなく、もともと成長する力が備わっているのです。
自分で成長していくために必要な力を持っているのです。

あのモンステラもまさにそうです。
はじめから、成長するように作られています。
だから、人間が頼りなくても、成長することができるのです。

雑草という存在を考えてみたら、このことがもっとよくわかるかもしれません。
お世話してないどころか、生えてきて欲しくないと思っても、自分で太陽の光を浴び、自分で雨の水を吸収して、勝手に成長していきます。

キリストは、神様の言葉には、そういう力があると言っています。

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(コリントの信徒への手紙一3:5-6)

これはパウロが語った言葉ですが、パウロやアポロが神様の言葉を伝えたことによって、救われる人が現れ、教会が生まれていきました。

しかし、ここでパウロが強調していることは、神様の言葉という種を蒔いたのは自分やアポロですが、大切なのは、その種を成長させてくださった神様だということです。

神様の言葉を伝える人ができることは、伝えること、教えるところまでです。
信じさせることまではできません。
でも、それでいいのです。

なぜなら、神様の言葉には、はじめから救いを与える力が備わっているからです。
そうだとすれば、人を救うのは神様です。

科学では説明できない信仰

私のことを考えてみても、本当にそうだなと思います。
神様の言葉の力というのは、本当に不思議なものです。

皆さんは自分がどのように救われたか、はっきりと説明できるでしょうか?
この御言葉を聞いて、キリストを信じるようになりましたとか、こういう出来事があって、信じるようになりましたという経験があるでしょうか?
明確に信仰を持った時点を記憶しているでしょうか?

もちろん、そういう経験があって、救われた日を覚えているという人もいると思いますが、私の場合は、そうではありません。
どちらがいいというわけではありませんが、それは救いというのが、科学的に説明できないことだからだと思います。

科学というのは、同じ条件のもとで、同じ方法を使えば、同じ結果が得られる再現性があります。
また、原因と結果の関係がきちんと成り立ちます。
だから、科学は、実験によって真理を証明することができます。

ただ、信仰はそれができません。
そもそも人間は、みんな違うので同じ条件というのが成り立ちません。

だから、同じような方法で、同じ神様の言葉を伝えたとしても、信じる人もいれば信じない人も出てきます。
必ずしも、同じ結果は得られません。

信仰を持つようになるまで、人によってそのプロセスはみんな違います。
むしろ、違っていて当然です。

私の場合は、大学生の時に初めて教会に行きましたが、それから、定期的に礼拝を捧げたり、聖書について教えてもらったり、クリスチャンと交流したり、いろんなことがあって、いつしか、神様に対する信仰を持つようになりました。

いつ、どのようにして信じたのかは、はっきり説明することができませんが、でもそれでいいと思っています。
信仰は科学ではないからです。

私だけではなく、皆さんの場合もいろんなことを通して、神様の言葉を聞き、信仰を持つようになったと思います。
それは、もちろん神様のことを伝えてくれて、種を蒔く人がいたからですが、その種が成長したのは、そもそも神様の言葉に力があるからです。
神様が働いているからです。

そうだとすれば、私たちができることは、種を蒔くことです。
信仰をコントロールする必要はないというか、コントロールするべきではありません。
蒔いた種はその人の心の中で成長していくのです。
このようにして、神の国は広がっていくのです。