恐怖体験アンビリバボー
今日分かち合うのは、キリストが復活した後、弟子たちの前に現れた場面です。
皆さんは「キリストの復活」をどのように受け止めているでしょうか?
キリストといえば、十字架と復活ですが、このうち十字架は歴史上の出来事として認識し、理解がしやすいでしょう。
しかし、復活は物理の法則を超えた次元の出来事なので、多くのつまずきを生み出します。
かく言う私も、教会に通い始めたあと、最後まで引っかかったのが復活の話でした。
頭で考えるだけでは、決して理解できない事象だからです。
最終的にどのように復活を信じられるようになったのか、はっきりとしたきっかけがあったわけではありません。
とにかく、キリストに関することで、多くの人の頭を悩ましてきたのが、復活の問題であることは確かでしょう。
聖書にはキリストが復活した後、弟子たちの前に姿を現した場面がいくつか出てきます。
ルカによる福音書には、十二弟子が一緒に集まっていたところに、突然、キリストが現れたという出来事が記されています。
死んだと思っていたキリストが、突然、目の前に現れたので、弟子たちは亡霊を見ているのだと思い、恐れおののきました。
ヨハネによる福音書には、キリストが殺された後「今度は自分たちがとっ捕まって殺されるかもしれない」と思って、弟子たちが一緒に集まり、家に鍵をかけて隠れていたことが書かれています。
今日の場面では、弟子たちが家の中に隠れていたかはわかりませんが、もし、そうだったとしたら、なおさら恐怖だったと思います。
なぜなら、突然、鍵とかけた家の中に人が入ってきたのですから。
そのことだけでも恐怖体験アンビリバボーですが、そこに現れた人がキリストだったので、弟子たちの目には亡霊にしか見えなかったわけです。
体の復活
うろたえる弟子たちを見ながら、キリストはこのように言いました。
キリストは「わたしの手や足を見なさい」「触ってよく見なさい」と言いながら、自分は亡霊ではないと話しました。
それでも、弟子たちが不思議がっているので、復活したことを証明するために、キリストは弟子たちから焼き魚をもらって、食べてみせました。
このように、キリストは弟子たちの前に現れ、復活をアピールしたのです。
この場面において、キリストが特にこだわっていることが一つあります。
それは、体をもった存在として復活したということです。
体を持たない霊としてではなく、体を伴って復活したということです。
キリストは「体」があるということに、強くこだわっているように見えます。
ここで少し考えてみたいのですが、キリストの復活は、体のない霊の復活ではダメだったのでしょうか?
霊が復活したという方が、多くの人にとっては受け入れやすいことだと思います。
日本の宗教観の中に「霊魂の不滅」というものがあります。
肉体は死んで滅びたとしても、霊が生きるということです。
日本人は無宗教の人が多いと言われていますが、特に信仰が持っていない人も、死によってその人が完全に終わるとは考えていないようです。
多くの人は、死んだ人に向かって「天国で安らかに眠ってください」とか「天国から見守ってください」というような思いを持っています。
これは霊が生きていると考えるからです。
こういう考えは、日本に限らず、時代や場所を超えて世界中で存在し続けているものだと思います。
キリストの復活も体を伴わない霊の復活であったなら、もっと多くの人に受け入れられたかもしれません。
しかし、聖書が伝えていること、また、教会が証ししてきたことは、キリストは体を伴って復活したということです。
そして、聖書が約束していること、また教会が信じていることは、私たちもいずれ、キリストと同じように、体をもって復活するということです。
傷跡が残った体
なぜ、キリストの復活は体を伴うものだったのでしょうか?
なぜ、教会は2000年の間、体の復活を信じ続けてきたのでしょうか?
それは、体の復活でなければ、語ることのできない希望があるからです。
体が復活するということにこそ、私たちの救いがあるからです。
キリストは「わたしの手や足を見なさい。触ってよく見なさい」と言われた後、弟子たちに手と足を見せましたが、体が復活したことを証明したければ、ただ「私の体を見なさい」と言えばよいでしょう。
復活したのは手と足だけではなく、体全体だからです。
キリストは何か手と足にこだわりを持っているようにも感じます。
もし何か意味があるとすれば、どういうことが考えられるでしょうか?
実は、復活したキリストの手と足に刻まれていたものがあります。
それは、十字架で釘を打たれた傷跡です。
復活した体は、きれいな新品の体ではありませんでした。
神様であれば、傷のある体ではなく、きれいな体で復活させることも当然できたはずです。
そちらの方が「復活」という感じがよく出ると思います。
しかし、復活の体には十字架の傷跡がそのまま残っていたのです。
このことは何を意味するでしょうか?
それは、この地上での歩みが決して否定されないということです。
キリストはマリアから生まれ、体を持ったことで人間となりました。
そして、人間となったことで、あらゆる苦難を受けなければなりませんでした。
ユダヤ社会から拒絶され、弟子たちから裏切られ、最後は十字架にかけられ、殺されました。
このように、キリストは人間となって、体を持ったことであらゆる苦難を受け、多くの傷を負ったのです。
しかし、父なる神様がキリストを復活させた時、その体には傷跡が残ったままでした。
どのような傷を負った体であったとしても、神様が霊だけではなく、体を復活させてくださるということです。
そうだとすれば、その体を持って歩んだ一生に意味があるのです。
どんな人生にも喜怒哀楽がありますが、喜びも苦しみも、いろんな経験をしたその体を神様は栄光の体に復活させてくださるのです。
完成に向かって
私たちの救いと希望は、単に死後の世界だけにあるわけではありません。
私たちは死んで、この肉体が滅びれば、体から解放され、苦難の人生からも解放されます。
しかし、そのように、この世界との関わりから解放されることが救いではありません。
もし、死後の世界にしか希望がないのであれば、私たちの人生はあまり意味がなくなってしまいます。
初代教会の時代に、ギリシャ・ローマ世界で、そういう思想が流行りました。
人間の中で、霊は善で、体は悪であるというグノーシス主義に基づく考えです。
「体があるから、人間は罪を犯すし、いろんな苦しみも経験しなければならない。だから、この体から解放されることが救いだ」と。
しかし、神様は私たちの霊も体も含めて、私という存在を良いものとして造ってくださいました。
そうであるならば、この体を持ってなされたすべてのことに意味があるのです。
私たちはこの地上での人生を終える時、それら全てがリセットされて、別の存在に生まれ変わるわけではありません。
この地上で体を持って歩んだすべてのことが、天に持ち込まれるのです。
この地上の出来事は天につながっていくのです。
天において、私たちの救いは完成するのです。
そうであるならば、地上で歩む私たちの人生は、回復のプロセスにあると言うことができます。
完成に向かう私たちの人生は今、回復途上にあるのです。
神様は、この地上での旅路を守り、完成へと導いておられるのです。