キリストらしくない答え
ある日、キリストが家を出て、湖に出かけて行った時、大勢の群衆がキリストの側に集まってきました。
そうすると、キリストは舟に乗り、その上から岸にいる群衆に向かって、たとえを用いながら、神の国について語りました。
マタイによる福音書の13章には、キリストが語った神の国の教えがいくつか記されていますが、そのはじめに語ったのが「種を蒔く人」のたとえ話です。
その他にも、毒麦のたとえ、からし種とパン種のたとえなど、キリストはたとえを用いて多くの話をしていますが、そもそもなぜキリストはたとえ話を用いたのでしょうか?
普通、たとえを用いるのは、話をわかりやすくするためです。
話を具体的にするために、明確にするために「たとえば…」という話をします。
ただ、キリストの場合はそうではありませんでした。
キリストが「種を蒔く人」のたとえを語った後、弟子たちはキリストに「なぜ人々にたとえを用いて話すのか」と質問しました。
そうすると、キリストはこのように答えました。
ここでキリストが言っていることは「群衆は、天の国の秘密を理解することはできないし、そもそも、彼らには天の国の秘密を悟ることは許されていない」ということです。
だから、たとえで語るのだと。
これを聞くとちょっと意地悪というか、キリストらしくない冷たい感じもします。
なぜそのように言われたのでしょうか?
たとえを用いる理由
キリストの宣教について考えてみると、その始まりに語ったのが「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉でした。
これが、キリストがこの地上で働いた3年半の間、人々に伝えようとしたことです。
「天の国は近づいたので、父なる神様のもとに戻りましょう」と。
キリストはこのことを言葉で語るだけではなく、病人を癒したり、奇跡を行ったり、あらゆる行いを通して、人々に明らかに伝えました。
しかし、キリストに出会った人々の中で、キリストをメシアとして受け入れる人はあまりいませんでした。
キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネという人も、ある時からは本当にキリストが旧約聖書で預言されているメシアであるのかを疑うようになりましたし、これまでの生活を捨てて、キリストに従って寝食を共にしていた弟子たちでさえも、本当にキリストを理解できていたわけではありませんでした。
その中でも、律法学者やファリサイ派と呼ばれるユダヤの指導者たちは、キリストに憎悪を抱くようになり、殺害を企てたほどでした。
キリストはこういう人々のことを「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない人々」だと語っておられます。
だからこそ、キリストはたとえを用いて語るようになったのです。
もちろん、これまでもキリストはたとえを用いて神の国の話をしてきました。
マタイによる福音書の5-7章の中にキリストが語ったメッセージが書かれていますが、そこでは「地の塩、世の光」という話や「岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人」の話など、たとえを用いて語っています。
ただこれは、話をわかりやすく伝えるために用いられたたとえでした。
しかし、13章に入ると、キリストはむしろ話をわかりにくくするために、たとえを用いるようになりました。
それは、たとえ話というのは、批判的に聞いても何もわからないからです。
「種を蒔く人」のたとえも天の国のことを考えることなく、ただ語っている言葉だけを聞いていたら、単に農業の話でしかありません。
もちろん、キリストは農業について教えたかったわけではありません。
キリストの話を聞こうとしたら、批判的な心を一旦脇に置いて、自分自身に語りかける言葉として、天の国の中に自分自身を置いて、耳を傾ける必要があります。
13:9にある「耳のある話を聞きなさい」というのは、そういうことです。
先入観や偏見を一旦取り払って、キリストが語る神の国の話を聞く時に、何か見えてくること、感じられることがあるというのが、キリストのたとえ話なのです。
パレスチナの種蒔き
このことを踏まえて「種を蒔く人」のたとえを聞いていきましょう。
1-9節で語ったたとえを説明しているのが18-23節ですが、19節のところでキリストは種について説明しています。
19節のはじめに「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ」とあります。
つまり、ここで種というのは御国の言葉、天の国の言葉、神の言葉のことです。
この神の言葉を蒔くために、キリストはこの世に人間として生まれ、その生涯を歩みました。
キリストの公生涯というのは、種を蒔く人として、農夫として生きた3年半であり、その種を蒔いた土地がパレスチナという地域でした。
昔のパレスチナは今のように畑が整えられていたわけではなく、灌漑設備もありませんでした。
特にパレスチナ地方は乾燥地帯で、雨も少ない地域です。
そのため、畑といっても、畑の中に種を蒔くために人が歩くところ通路は、道端のように硬くなっていたり、石が転がっていたり、土が乾燥したりしていました。
そういう畑に人が歩きながら種を蒔いたり、または、種が入った袋を背負った動物が種を蒔いたりもしたそうです。
なので、当時の種蒔きは、種を蒔いたというよりも、種を適当にばらまくようなものでした。
そのため、種は人が歩いて通るところに落ちるものもあれば、石だらけのあまり良くない土地に落ちる種もありました。
そういう種は、鳥の餌になったり、芽を出したとしても水不足や茨によって、実を結ぶことなく枯れてしまうことも多かったようです。
このようにみると、種蒔きには無駄なように思えるところがたくさんありました。
それでも、農夫は身を結ばない種もたくさんあることをわかっていながらも、良い土地に蒔かれた種が実を結び、収穫を得ることを期待して、種蒔きを行ったのです。
種を蒔かれる人として
私たちはこの種を蒔く人の話を聞く時に、2つの立場で聞くことができます。
1つは、種を蒔かれる側として、つまり、神の言葉を聞く者としてです。
キリストは4種類の土地について語っています。
それが、道端、石だらけで土が少ない土地、茨が生えている土地、良い土地の4つです。
この中で、良い土地に蒔かれた種だけは30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができますが、それ以外は実を結ぶことのできない土地です。
神様の言葉を聞いても、悪い者によって奪われたり、試練や苦しみによってつまずいたり、思い煩いや誘惑によって最終的には実を結ぶことができなくなってしまったりと、良い土地以外は実を結べない土地です。
これらの土地と自分自身を重ね合わせて考えてみると、自分は良い土地だと自信を持って言える人はほとんどいないと思います。
ただ、この4つの土地というのは、それぞれ離れたところにあるのではなく、一つの畑の中にある土地だということを忘れてはなりません。
ということは、道端が永遠に道端であるとは限りませんし、石だらけの土地や茨が生えている土地が、次の年も同じ状態かどうかはわかりません。
つまり、どの土地も良い土地に変わる可能性があるということです。
なので、私が4つのうちどの土地であるかを考えることよりも大切なことは、神様は今私たちがどんな土地であったとしても、神の言葉を蒔き続けてくださっているということであり、そして、神様は私を良い土地へと変えてくださるということです。
種を蒔く人として
次に、種を蒔く人の側として、このたとえを考えてみましょう。
キリストの宣教の働きは、まさに種を蒔く農夫のような働きでした。
いくらキリストが語ったり、教えたりしても、それを受け入れない人々がいました。
それだけではなく、敵対心を持って、自分を殺そうと狙う人々まで現れました。
蒔いた種が芽を出して、実が結ばれたと思えるような人々も、最後はみんなキリストのもとから離れていってしまいました。
最後は、キリスト自身も十字架で殺されてしまったのです。
しかし、たとえそうであったとしても、キリストは必ず実を結ぶ種があるということを信じていました。
収穫を期待する農夫として、キリストは種を蒔き続けました。
しかも、キリストは種を蒔く土地を選ぶことなく、どんな土地であっても、神の言葉を蒔き続けたのです。
このたとえの中では、良い土地だけではなく、道端や石だらけの土地にも蒔かれた種があります。
キリストの宣教の働きを見ると、キリストは良い土地だけではなく、実を結ぶことが難しい道端にも種を蒔いていたことがわかります。
はじめは大喜びで近づいてくるけど、そのうちに離れ去っていくだろう人々にも、また、ご自身に敵対心を持ち、殺そうと考えていた人々にも自ら近づき、彼らにも語り続けたのです。
このキリストによる種蒔きは、今も続いています。
キリストは今、教会を通して、この世界という土地に種を蒔き続けておられます。
無関心な人や敵対する人であっても、この2000年間、教会は神の言葉という種を蒔き続けてきました。
道端に見えるような日本にも470年ほど前にはじめて福音の種が蒔かれ、少ないながらも結ばれる実があるのです。
確かに農夫は、種蒔きには無駄だと思えるようなことがあることも知っていました。
でも、蒔いた種の中から収穫があることも期待していました。
農夫というのは、最初から「どうせ無駄になるんでしょ」と思っていたら、できない働きです。
「すべてが実を結ぶわけではなく、無駄だと思えるようなことがある」
こういうことを知っていながら、それでも収穫があることを期待すること、これが神の言葉という種を蒔く私たち教会が持つべきマインドなのでしょう。
私たちが種蒔きのたとえ話を聞く時に大切なことは、種を蒔かれる側としても、種を蒔く側としても、どちらにおいても、蒔かれた種が実を結ぶことができるように、成長させてくださる神様がいるということなのです。