天の父のもとに帰る時
今日の箇所はキリストが逮捕される直前、弟子たちと一緒に時間を過ごした最後の晩餐での一場面です。
最後の晩餐というと、レオナルド・ダ・ヴィンチがかいた壁画が有名です。
あの絵は、キリストが12人の弟子たちと夕食を分かち合っているところですが、そこではパンとぶどう酒を分かち合うという聖餐も行われていました。
ヨハネ以外の3つの福音書には、最後の晩餐で行われたこととして書かれているのは、聖餐の出来事暗いですが、ヨハネによる福音書だけは異なります。
そもそもヨハネによる福音書は、他の福音書よりもずっと長く、最後の晩餐の場面について記しています。
その中でヨハネが記している多くは、キリストが語った言葉です。
最後の晩餐の場面で語られたキリストの言葉を聞いてみると、そこでキリストが弟子たちに伝えようとしていることが大きく3つくらいあるように思います。
1つは「私はこれから天の父のもとに行くが、あなたたちはついてくることはできない」ということです。
キリストは目に見えるこの世界から、天の父のもとに帰って行こうとされていました。
このことは、弟子たちにとって何を意味したでしょうか?
キリストが天の父のもとに行くことは、イエス様が目に見えなくなってしまうということであり、それはキリストとの生活が終わることを意味しました。
しかし、これはキリストとの関係の終焉を意味したのではありません。
関係の変化
キリストが伝えた2つ目のことは「わたしは目に見えなくなるけど、あなたたちと共にいる」ということです。
これは、キリストとの関係が終わるのではなく、その関係が見える関係から、見えない関係へと変わるということです。
キリストが天の父のもとに行けば、弟子たちからは目に見えない存在になってしまいます。
それを聞いた弟子たちの心は騒ぎましたが、そこでキリストは弟子たちに一つの約束をされました。
キリストはご自分とは別の弁護者を遣わすという約束をされました。
それが、真理の霊である聖霊です。
別の弁護者という言葉が意味するのは、聖霊が新たな弁護者であるということだけではなく、キリストがこれまでも、またこれからも弁護者として共にいるということです。
自分とはまた違う弁護者を送るということであり、弟子たちからしたら、新たな弁護者が与えられることを意味しました。
弁護者という言葉は「助け主」とか「慰め主」という意味の言葉です。
そのように、キリストと聖霊は、私たちの弁護者として存在しておられます。
キリストが目に見える世界を去り、天の父のもとに帰るということは、地上に残された物たちを見捨てるということではありません。
どんな時でも、私たちのそばにいて私の味方になってくださるのが、キリストであり、聖霊なのです。
互いに愛し合う中に
キリストが伝えた3つ目のことは「互いに愛し合いなさい」ということです。
キリストは復活した後、天に昇り、この地に聖霊を注ぎました。
ただ、キリストとの関係が目に見えない関係であることには変わりありません。
なぜなら、聖霊は霊であり、目には見えない存在だからです。
それでは、どうやったら目に見えないキリストが今ここに、私たちと共にいることがわかるようになるのでしょうか?
それこそ、キリストが3つ目に伝えた言葉の中に隠されています。
この2つは、ほとんど同じことを言っています。
私(=キリスト)を愛することは、私(キリスト)の掟を守ることだ、ということです。
つまり、キリストを愛することとキリストの掟を守ることの間には、深いつながりがあるのです。
それでは、キリストが言われた「わたしの掟」とは何のことでしょうか?
それこそが「互いに愛し合う」ということです。
キリストを愛することは、互いに愛し合うことです。
互いに愛し合う中に、キリストの愛が現されるのです。
私たちは、互いに愛し合うことで、今ここにいるキリストを感じることができるのです。
愛というのは、対象が必要です。
1人で愛を感じることはできません。
神は愛です。
ということは、私たちが互いに愛し合う中で、神が愛であること、愛である神を知ることになるということです。
私たちは今、キリストを見ることはできません。
しかし、私たちが互いに愛し合う中に、キリストを感じることができるのです。