分裂の使者?
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、…対立して分かれる。」
これは、この地上を破滅しようする悪の星から来たデストロイヤーが言った言葉ではありません。
キリストが語った言葉です。
本当にキリストはこんなことを言われたのかと思ってしまいますが、これらの言葉は、聖書のメッセージとはかなりかけ離れているように感じます。
たとえば、キリストが誕生した時、天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しました。
天使たちが「地には平和」と賛美したように、キリストの誕生はこの地に平和をもたらす出来事でしょう。
また、キリストが復活した後、弟子たちの前に現れて、繰り返し言われたのは「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。
キリストは恐れに取り憑かれている弟子たちの心が平和で満たされることを願いました。
このように、聖書全体が描写するキリストは明らかに「平和の使者」です。
それにも関わらず、なぜキリストは「分裂の使者」とも思われかねないようなことを言われたのでしょうか?
イエスはメシアか否か?
確かにキリストは「分裂をもたらす」とか、「家族間に対立が起こる」と言われましたが、これはキリストが願って引き起こそうとしたわけではありません。
ただ、実際、この地にキリストが来られた時、そこでは分裂や対立が起こったのです。
ユダヤ人たちは、キリストを見ながら、その見方において、分裂し、対立しました。
当時のユダヤは、イエスをメシアとして受け入れる人がいた一方で、イエスを偽メシアとして断罪する人々がいました。
イエスの両親であるヨセフとマリアは、我が子を神から与えられたメシアとして育てました。
キリストが誕生した時、東方の国からやってきた三人の占星術師たちは、イエスをユダヤの王だと拝し、ひれ伏しました。
その一方で、キリストが誕生した時、ユダヤを治めていたヘロデ王は、イエスのことを恐れ、イエスが生まれたベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにしました。
また、ファリサイ派に属する律法に厳格な人々は、ある時から、イエスが神を冒涜しているとして、その命を狙うようになりました。
このように、イエスに対して、メシアであるかそうではないかという二つの見方によって、ユダヤは分裂し、人々は対立したのです。
このような対立は、イエスの死後、さらに激化し、初代教会は世間から激しい迫害に晒されました。
エルサレムでは、ステファノという執事が殺害される事件まで起こりました。
その後も、時代や場所によって、イエスをメシアとして受け入れる人々が増えたこともありましたが、イエスに対する二つの見方というのは、今の時代までずっと続いてきたのです。
自分で判断しなさい
日本のことを考えてみると、キリストが地上で生きていたユダヤの状況に、やや似ているところがあります。
日本では、イエスをメシアとして受け入れているクリスチャンは、ごくわずかです。
日本は仏教や神道がベースにあり、宗教絡みの事件の影響もあり、キリスト教や教会は近寄りがたい存在です。
なので、この日本で信仰を持って生きることは、そんなに易しいことではありません。
私もそうですが、家族の中で自分だけが信仰を持っているという人にとっては、家族も含めて、身の回りにクリスチャンがいないというのは、心細い面も大きいでしょう。
信仰を持っていることを言いづらい雰囲気もありますし、変に思われないかという不安もあります。
こういう現実の中で信仰生活を送っている者にとって、今日の聖書箇所はとても励ましになります。
イエスに対する見方が二分している状況において、キリストは今の時を見分けるように言っています。
また、何が正しいのか、自分で判断するように言っています。
この言葉は、日本に生きるクリスチャンにとって、周りの人がどうであるかの前に、何が正しいと思うのか、自分で判断したことに従うようにという励ましの言葉です。
イエスをメシアと見るかについて、分裂や対立は避けることのできないものです。
だからと言って、分裂を避けるために、イエスはメシアではないという点で一つになることは、神の望んだ一致ではありません。
この現実を忍耐できるのは、あらゆる分裂や対立が溢れる世界に、イエスが真の平和と一致をもたらしてくれるという希望があるからです。