父と息子の危険な関係
これは「放蕩息子のたとえ」と言われている、聖書の中でも有名な箇所です。
その放蕩ぶりは、まず一つに、父親が生きているうちに前もって財産の分け前をもらおうとしたことです。
父親の存命中に財産分与を行うというのは、ユダヤ社会の慣例に逆らうことであり、父親をすでに死んだ者とみなす無礼な要求でした。
このことに父親とこの息子の関係性が現れています。
物理的には同じ屋根の下で家族として暮らしてはいたものの、息子の心は父親から遠く離れていました。
息子にとって父親など存在してもしなくてもどうでもいい相手だったのです。
父親から財産をもらうことに成功した息子は、その後、全財産をお金に変えて、遠い国へと旅立って行きました。
そしてそこで、全財産を使い果たすほど、ハメを外しまくったのです。
これが、この息子が放蕩息子だと言われる所以です。
これはあくまでもたとえ話としてキリストが語ったものですが、この話の中で父親というのは神様のことを、また息子は神様から遠く離れていた人間のことを指しています。
人間は放蕩の限りを尽くした息子のように、神なんて存在してもしなくてもいいと、神様を死んだ者として扱ったのです。
人生の摩訶不思議
これがアダム以降、多くの人々と神様との関係性ですが、聖書で言う罪とはまさにこの状態のことです。
罪というのは道徳的に腐敗しているとか、犯罪に手を染めているということではなく、人間が神様から遠く離れてしまっている状態のことです。
問題とされているのは、神様との関係性がどうであるのかということなのです。
つまり、この息子の根本的な問題は、父親に生前分与を要求したことや放蕩の限りを尽くしたことではありません。
父親を知っていながらも、あたかも存在していないかのようにみなしていたこと、父親から遠く離れていたことが、この息子の罪なのです。
ただ、この場面で一つ不思議なのは、父親が息子の要求をあっさりと飲んで、財産を分け与えていることです。
ユダヤ社会において、父親は家族に対して絶対的な権威を持っていたので、当然、息子の要求を拒否することもできましたが、父親は難色を示すことなく、ありえない要求を受け入れたのです。
このことからわかるのは、一つには、神様というのは、基本的に人間が願った通りになされるお方だということです。
神様は強制的な力で人間をコントロールすることなく、私たちの自由な意思を尊重しておられます。
またもう一つは、人間が自分の願った通りにしたからと言って、それが必ずしも幸せをもたらすのではないということです。
これは反対に言えば、思い通りにいかないことが必ずしも不幸せではないということでもあります。
この息子の場合、むしろ、自分の思っていた結果とは異なる事態を招いたことが、自らと向き合う機会となったのです。
息子にまさる放蕩ぶり
全財産を使い果たし、食べることさえできなくなるほどにどん底まで落ちた時、息子は我に返りました。
「我に返った」というのは、自分の本当の姿に気づいたということです。
これまで父親にどういう態度を取って来たのか、父親を死んだ者のように扱っていたことが「罪」だと悟ったのです。
それで彼は、父親のもとに戻る決心をしました。
父親を裏切り自分の好き勝手やっておきながら、困ったからまた実家に戻ろうというのは、あまりにも都合の良すぎる話です。
普通なら、自業自得だと一蹴されて終わりでしょう。
しかし、家に戻った時、父親は遠くから息子の姿を見るなり、息子の方へと走り寄って行きました。
そして「死んでいた息子が生き返った」と言って、祝宴を開きました。
決して昔の話を持ち出すこともなく、息子の責任を追求することもなく、ただ息子が返って来たことを喜んだのです。
ティモシー・ケラーというアメリカの牧師は、この父親の姿を、放蕩の限りを尽くした息子以上に放蕩していると言い表しました。
父親はやりたい放題やった息子を何の条件もなく、ただ受け入れたのです。
これこそ、私たちに対する神様の姿です。
父親がありのままで自分の元に戻って来た息子を喜んで受け入れたように、私たちはありのままの今の姿で神様のもとにいけば良いのです。
なぜなら、神様は私という「存在」を喜んで受け入れてくださるお方だからです。