試練や誘惑の中にある時
キリストが悪魔から誘惑を受けた出来事は、3年半の公生涯が始まる直前に起こりました。
この出来事を経て、キリストの働きー福音を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出すetc…ーが始まっていきました。
この場面で一つ押さえておくべきポイントは、そこに神様が関わっていたという点です。
1節に「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され」とありますが、キリストはヨルダン川で洗礼を受けた後、聖霊に満ちて帰ってきました。
そして、それから霊の導きによって荒れ野へと送り出されたのです。
さらに、14節を見ると「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」とあるように、誘惑を退けた後もイエスは霊に満たされていました。
これらのことから、キリストが悪魔から誘惑を受けたという出来事には、霊の導きがあったことがわかります。
つまり、荒れ野での40日間というのは、神様を中心に見れば、神様から与えられた試練であり、悪魔を中心に見れば、悪魔から受けた誘惑だったと言えます。
ここから導き出される一つの真理があります。
それは、試練や誘惑というのは、神様に愛されていないから、神様に見捨てられてしまったから起こる出来事ではない、ということです。
荒野というのは欠乏や危険、疲労や苦難と隣り合わせの過酷な環境です。
私たちがそういう状況に追い込まれた時、それでも自分は神様に愛されている、守られているとは思いがたいでしょう。
しかし、神様の愛や聖霊の満たしというのは、私たちの目の前の現実、順境か逆境かに関わらず、聖書が伝える真理として、私たちに約束されていることなのです。
試練や誘惑の中にある時、私たちはそれでもなお、神様に愛されていて、守られているのです。
誘惑の正体
それでは、悪魔はどういう目的でキリストを誘惑したのでしょうか?
悪魔の目的は、単に罪を犯させたり、道徳的に堕落させたりすることではありません。
悪魔の本当の狙いは、神様から離れさせることにあります。
神様との関係を断ち切り、自力で生きるようにする、それによって悪魔の支配下に置くことが、悪魔の目的だと言えます。
まさにキリストが受けた3つの誘惑を見ても、そういう悪魔の魂胆が見られます。
①「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
悪魔は、キリストが自らの空腹を満たすために、自分の力で石をパンに変えてみればと唆しました。
この誘惑はつまり、神様の助けではなく、あなたは十分に自力で生きられるよという誘いです。
②「この国々の一切の権力と繁栄とを与えるから、わたしを拝みなさい。」
悪魔は、パン以上のもの、世界の権力と繁栄をちらつかせながら、神ではなく私を拝むようにと誘いました。
この誘惑はつまり、神様に仕えて生きるよりも、私に仕えて生きる方がもっとたくさんの物を得ることができて、幸せになれるよという誘いです。
③「天使が守ってくれるから、神殿の屋根から飛び降りてみなさい。」
悪魔は二つ目の誘惑に、イエスが「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」と答えたことに対して「じゃあ、あなたが拝み、仕えている神は、天使によってどんなときもあなたを助けて、守ってくれるんでしょ?」と誘いました。
この誘惑はつまり、神を信じているならすべてあなたの思い通りになるはずだけど、本当にそうなのか、本当にそういう生き方が幸せなのか、という誘いです。
本当の幸せはどこに…
悪魔はキリストを誘惑したように、私たちのことをもそのように誘惑してきます。
「神なんか信じて生きていて、本当に幸せになれるの?」
「お金、物、権力、名誉、評価、こういうものがあなたを本当に幸せにしてくれるよ。」
「だから、本当にあなたの人生に神が必要なのかもう一度問い直してみたら?」
こう悪魔が誘惑してくるように、私たちの幸せがどこにあるのか、どこに幸せを見出しているのか、何を求めて生きているのかということは、長い人生を生きる上で不可欠な問いでしょう。
もちろん、美味しい物を食べて幸せを感じることがあれば、欲しかった物を手に入れて幸福感に浸る瞬間もあります。
ただそれと同時に、悪魔がちらつかせたものが私たちの人生のすべてなのか、ということも考えてみなければなりません。
私たちの幸せは一体どこにあるのでしょうか?
自力で欲しい物をひたすら追い求める人生でしょうか?
それとも与えられた物に感謝しつつ、誰かに仕える人生でしょうか?