民衆が待ち望んだメシア
15節の初めに「民衆はメシアを待ち望んでいて」と書かれているように、当時のユダヤでは、メシアを求める機運が高まっていました。
その大きな理由は、当時ユダヤを支配していたローマの存在にあります。
ユダヤが異邦人であるローマに支配されるようになってから数十年が経ち、ユダヤの伝統は脅かされ続け、民衆の生活は常に恐れと不安の中にありました。
そのため、多くのユダヤ人は、武力によって不当にユダヤを支配するローマを正しく裁き、ローマによる支配から解放してくれるメシアの存在を待ち望んでいたのです。
ユダヤでは、旧約聖書の最後に出てくるマラキという預言者を最後に、数百年もの間、預言者不在の時代が続きました。
そこに登場したのが、洗礼者ヨハネでした。
彼は民衆に対して、相当厳しいメッセージを語っていましたが、それでも久しぶりに登場した預言者を前にして、人々は「ヨハネこそ、あのメシアではないか」というメシアへの希望を抱き始めていました。
水によるバプテスマ
しかし、洗礼者ヨハネはそういう民衆の期待を一蹴して言います。
「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。
ヨハネは自分の後に本当のメシアが来ると民衆に告げました。
ヨハネは、自分とメシアの違いは「どのように洗礼を授けるのか」というところに現れると言いました。
この時ヨハネは、水で洗礼を授けていて、後にイエス様もヨルダン川で、このヨハネから水による洗礼を受けます。
洗礼というのは、実は、キリスト教の専売特許ではありませんし、そもそもキリスト教が始めたものでもありません。
当時のユダヤでは、ファリサイ派というユダヤの律法を固く守ろうとするグループによって、異邦人がユダヤ教に改宗するための儀式として、洗礼を行っていました。
また、エッセネ派という砂漠や洞窟の中に隠れて共同生活を送っていたグループでは、毎日、自らを清めるという目的で清めのバプテスマが行われていました。
そんな中、ヨハネが授けていた水による洗礼は、悔い改めのバプテスマでした。
ヨハネは人々に対して「悔い改めにふさわしい身を結びなさい」と言いながら、単に洗礼を授けるのではなく、悔い改めを求めました。
火によるバプテスマ
その一方で、メシアが授ける洗礼は、聖霊と火によるのだとヨハネは語りました。
それと同時に、ヨハネは間も無く終末が来て、裁きの日が近いことを感じて、メシアは終わりの日に不義を裁く方であるとも告げました。
ヨハネの証言をまとめると、メシアは「水」ではなく「聖霊と火」で洗礼を授ける方であること、そして、終わりの日に裁きを行う方であるということになります。
エッセネ派の人々は、毎日、水による清めのバプテスマを行っていました。
ファリサイ派の人々は、改宗の儀式としてバプテスマを行っていました。
確かに、そういう儀式を通して、決心を新たにしたり、自らを顧みる機会にはなっていたと思います。
しかし、救いというのは、単に儀式的な行いや人間の決心によってもたらされるものでもありません。
本当の意味で私たちが生まれ変わることができるのは、聖霊によるのです。
そのことをイエス様自身も証言しています。
また、パウロはこのように言っています。
キリストを信じて救われるということは、ただ何か崇高な儀式によるのでもなければ、こちら側の意思の問題だけでもありません。
神様によって「聖霊」が与えられる時、それはすなわち、神様の側での働きがある時に、私たちのうちに「イエスは主である」と告白できる信仰が与えられるのです。
これこそ、救いであり、新たに生まれ変わることなのです。