食前に手を洗わない問題
ユダヤには、神の掟である「律法」の他に、もう一つ「昔の人の言い伝え」という大切な掟がありました。
これは「律法を絶対に犯してはならぬ!」という精神から生まれた「律法厳守マニュアル」みたいなものです。
律法そのものではないものの、律法と同じレベルで大切に守られていました。
ある時、ファリサイ派と律法学者たちは、この言い伝えを根拠にして、イエス様を攻撃しました。
イエス様の弟子たちの中に、手を洗わずに食事をする者がいたのです。
手を洗わずに食事をしたからといって、これは衛生的なことを問題にしているのではありません。
言い伝えによると、食前には手を洗い、汚れを清めなければならなかったのです。
これに対して、イエス様は、言い伝えを神の掟のように教えていたファリサイ派と律法学者たちを戒めました。
「あなたたちは『偽善者』であり、『神の掟を捨てている』」と。
神が掟を与えた本当の意味
ユダヤ社会に、数々の言い伝えが生み出された経緯には、イスラエルが歩んできた歴史が大きく関係しています。
「イスラエルが他国からの侵略に遭い、支配に置かれてきたのは、律法を軽んじて、神様に逆らったからだ」という認識のもとに「再び同じ悲劇を繰り返さないために、律法を厳守し、徹底的に神様に従おう」という崇高な動機があったのです。
しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、言い伝えを律法と同じように扱い、さらに、これらの掟を自分自身や人々を判断する道具としてしまったのです。
言い伝えを絶対的な基準にして、自分と周りを評価し、言い伝えを守っているか否かで、人々の信仰を判断し、断罪していたところに、彼らの過ちがありました。
基準によって生きる生き方は、人を幸せにすることはありません。
基準に届かない自分を見て落ち込むか、基準を満たしている自分とそうでない人を比べて、偉そうに振舞うかのいずれかでしょう。
そもそも律法の目的は、神様を正しく知り、神と人と共に愛の関係に生きることにあります。
律法であれ、言い伝えであれ、それらが誰かを評価する基準になる時、神の掟でも立派な教えでもなくなっていきます。
神様が何よりも願っていることは、私たちと愛の関係を結び、また、私たちが隣人と愛の関係に生きることなのです。