▶︎ ハンナを襲った三重苦
私たちが信仰を持って生きる者であるかどうかは、たった一つの質問にどう答えるかによって明らかにされます。
その質問とは「あなたの人生にとって、これがなくては生きていけないというものは何ですか?」というものです。
この質問に対して、ある人は「家族や子供」、また「仕事やお金」だと答える人もいると思いますが、皆さんだったらどのように答えるでしょうか?
神を信じる人が問われていることは、ちゃんと毎週礼拝を捧げているのか、しっかり御言葉を読んで祈っているか、ということ以上に、本当に神様だけいれば生きていけると信じているのか? 本当に神様だけで満足しているのか? ということです。
ハンナの夫であるエルカナには、もう一人ペニナという妻がいました。
ペニナは次々と子供が生まれましたが、ハンナには子供が与えられませんでした。
このことについてハンナは激しく悩み、苦しみました。
子供ができないことで、ハンナはペニナから嫌がらせを受け、夫も自分の苦しみを理解してくれませんでした。
それ以上に、ハンナを最も苦しめたことは「神様が自分にだけ子供を与えてくれない」という、神様からくる苦しみだったと思います。
イスラエルの社会では、子供というのは、目に見える神様の祝福のしるしだと考えられていました。
そういう社会の中で、子供が一人もいないということは、神様から祝福されてないことだと受け取られました。
ハンナは、ペニナ、夫のエルカナ、神様と、三重の苦しみを受けていました。
▶︎ 激しく嘆き祈ること
私たちが受ける苦しみの中で、最も辛いのは「原因不明の苦しみ」ではないかと思います。そういう時に私たちは、なぜ自分がこんな苦しみを受けなければならないのか、苦しみの原因を突き止めようとしますが、この世界は因果応報の世界ではないので、当然、全部の苦しみを理解することはできません。
原因不明の苦しみが襲ってきた時にこそ、私たちの信仰が問われる時であり、私たちが何を信じているのかが明らかになる瞬間です。
私だったら、とりあえずペニナの子供に一撃を喰らわしてしまうかもしれませんが、ハンナはそうはしませんでした。
三重の苦しみを受けていたハンナにも、この時、たった一つだけできることがありました。
ハンナは神様の前にひざまずいて、祈りを捧げました。
ハンナは自分の苦しみや痛みをすべて、ありのままに神様の前に告白しながら、激しく泣きました。
これは一見、とても弱々しい姿に見えるかもしれませんが、これこそが、信仰者として神様の前にあるべき姿です。
何か問題が起こっても「別に私は大丈夫だけど」という態度が信仰ではありません。
泣きたいことや悲しいことがあれば、神様に対して嘆けばいいのです。
私たちが苦しみや怒りを感じる時、それが今、自分の心が抱いている激しい感情であることを認めなければなりません。
そしてそれは、可能な限り激しく、神様の前に表されるべきです。
今自分が抱いている正直な心を打ち明けることによって、今自分が何を感じていて、どんな心を持っているのか、本当の自分の心を知っていくようになります。
そのように、神様に対して自分の苦しみや失望を訴えることは、現状を乗り越えようとする強い希望の表れであり、すでに問題からの解放が始まっているしるしだと言えます。
実際にハンナは、神様の前で泣きじゃくり、嘆き祈る中で、ハンナ自身が変えられていきました。
▶︎ 本当の苦しみの原因
ハンナは神様に祈った後に、ようやく食事をすることができるようになりました。
食事をする時の彼女の表情は、もはや前のようではありませんでした。
これは、祈りの中で、ハンナの心が変えられたことを意味します。
神様への祈りを通して、ハンナの中で、子供が与えられることの意味が変わったのです。
だからこそ、ハンナは生まれてくる自分の子供を神様に捧げる告白ができたのです。
これまでのハンナは、自分に子供が生まれないことが、自分の人生を不幸している最大の原因だと考えていました。
自分に子供が与えられさえすれば、自分の人生は180度変わるんだと。
しかし、ハンナは祈りの中で、自分の苦しみの原因は、子供が生まれないことではないことに気づいたのです。
そうではなく、子供さえ生まれれば救われる、子供が自分を苦しみから救ってくれると、神様ではないものに救いを求めていたハンナの心こそが、ハンナを苦しめる本当の原因でした。
そして、自分を救ってくれるのは子供ではなく、神様であることを受け入れたのです。
私たちにも、これさえあれば自分の人生は変えられるのにとか、このせいで自分の人生は狂わされたと、思いたくなるようなことがあるかもしれない。
しかし、私たちの人生を本当に変えることができるのは、ただイエスキリストだけです。
もし、すでにキリストを救い主をとして受け入れているのなら、私たちの人生はすでに変えられています。
キリストを信じていながら、まだ人生の救いを他のものに求めているとしたら、それは偶像を求めていることであり、救いの信仰ではありません。
「みなさんの人生にとって、これがなくては生きていけないというものは何ですか?」
この質問に対して、あなたはどのように答えるでしょうか?