イエスにかけられた期待
イエスがご自分についてくる群衆に対して、次のように語りました。
26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
33節「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
家族や自分の命を憎むとか、自分の持ち物を全て捨てなければならないとか、まるでカルトの思想のように聞こえます。
私たちが、聖書から聞いてきたことは「憎みなさい」ではなく「愛しなさい」ということだったはずです。
これは旧約時代からの大切な教えで、イエス自身も語ったことです。
「家族や自分を憎め」というのは、それとは正反対の言葉で、聖書全体の内容とも馴染みません。
イエスが語られた言葉の真意はどこにあるのでしょうか?
この時イエスは、弟子たちを伴って、エルサレムを目指して進んでいました。
ルカによる福音書の中で、大きな転換点となるのが、9:51です。
イエスの公生涯は3年半ほどですが、ある時点から、イエスはエルサレムに向かって足を進めました。
イエスはエルサレムに行けば、そこで苦難を受けること、十字架という死が待ち受けていることをよくわかっていたでしょう。
その上で、イエスはエルサレムに向かったのです。
イエスにとってエルサレムに向かうことは、天に帰る道のりでしたが、この地上においては、肉的な命が終わることを意味していました。
エルサレムに向かうイエスの後ろからは、大勢の群衆が付き従っていました。
大勢の群衆がイエスに付き従っていたのは、イエスに対する特別な期待があったからです。
ユダヤの人々は、このイエスが旧約聖書で預言されているあのメシアではないか、神様がユダヤを救うために備えていたお方なのではないか、という期待に胸をふくまらせていきました。
この時ユダヤの人々がメシアに期待したことは、ユダヤを支配しているローマからの解放でした。
宗教的にも、政治的にも自由になり、再びユダヤに、ダビデの時代のような繁栄が訪れることを人々は願いました。
人々の期待が、この福音書の中でも窺い知ることができます。
このように、人々はイエスがエルサレムに入った後、ローマをやっつけて、神の国が現れること、神様の救いイエスによって実現し、神の王国が現れることを願っていました。
このイエスというお方にその期待をかけて、大勢の群衆はエルサレムへの旅に付き従ったのです。
まず腰を据えて
しかし、この時群衆たちは、この後エルサレムでイエスを待ち受けていることなど、露も知りませんでした。
まさかエルサレムでイエスが殺されてしまうなんて、全く思ってもみないことでした。
そういう状況の中で、ご自分の後についてくる大勢の群衆に向かって、イエスは語られたのが、家族を憎み、財産を捨てなさいという言葉でした。
この話の中で、イエスは2つのたとえを話しています。
一つ目は、塔の建設についてです。
塔を建てようとするならば、完成させるために必要な費用を前もって計算するはずだとイエスは言いました。
二つ目は、敵との戦いについてです。
どんな王でも、相手の戦力を見極めて、それによってこちらの出方を考えるはずだとイエスは言いました。
この二つのたとえ話を通して、イエスが伝えようとしていることは何でしょうか?
たとえの中に共通している言葉があります。
それが「まず腰をすえて」という言葉です。
28節の終わりに「まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とあり、また、31節の終わりに「まず腰をすえて考えてみないだろうか」とあります。
つまり、このたとえ話の要点は、何かを始める時、とりあえず行動するのではなく、前もってよく考えた上で、行動に移すべきだということです。
このたとえ話の結論と「家族を憎み、自分の持ち物を捨てる」ということにはどんなつながりがあるのでしょうか?
この時、イエスについて来ていた大勢の群衆は、いわば熱狂状態にありました。
人々はイエスのなさる奇跡を見ながら「この方がユダヤを救うメシアだ!」「神の国がすぐにでも現れる!」と熱狂し、沸き立っていました。
そんな群衆に対して、イエスは「まず腰を据えて、よくよく考えてみなさい」と言われたのです。
イエスは「本当に私に従うつもりがあるのか? 私に従うということがどういうことなのかわかるのか? もし本当に付いてくるなら、最後まで従うつもりでついて来なさい」というようなことをイエスは伝えたかったのだと思います。
彼らが本当に最後までついて行くつもりであるならば、そこで必要になることが家族を憎み、自分の持ち物を捨てるということでした。
最後まで従うつもりがあるのか?
皆さんは、イエスに最後まで従うつもりはあるでしょうか?
そうだとすれば、家族を憎み、財産を捨てなければならないということになるが、そうする覚悟はあるでしょうか?
私たちにとって、イエスの言葉はかなり過激に聞こえますが、これを正しく解釈するためには、当時の表現方法を理解する必要があります。
ユダヤの表現として、あることを強調するために、その対照となっているものを完全に否定するという表現方法があります。
二つの物があって、その一つを選ぶとき、「一つを愛し、他方を憎む」という言い方をします。
「一つのことを愛し、他方を憎む」という場合の「憎む」は、感情的に憎しみを抱くということではなく「選ばない」ということを意味します。
つまり、こういう言い方をする時、そこで伝えようとしていることは「どちらを優先するのか」ということです。
ルカによる福音書の9章の中にも、そのような話があります。
イエスがある人に「わたしに従いなさい」と言うと、その人は「まず、父を葬りに行かせてください」と答えました。
そうすると、イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。
この話を聞くと、イエスに従うためには、親が死んだ時、葬式に参列することも許されないのかと思ってしまうが、単にそういう意味ではありません。
「死んだ命はどうでもいい」ということではなく「イエスを信じ、従っていく時に、大切に思っているものを時には犠牲にしなくてはならないことがある」ということです。
イエスの弟子として、イエスに従っていく時に、そのように、どちらか一つを選択しなければならない時があるのです。
家族を憎むとか自分の持ち物を捨てるというのも、そういう話として理解することができます。
文字通りに憎んだり、捨てたりするということではなく「それに執着しない」ということです。
こういうことをよく考えさせるために、イエスはあえて「憎む」とか「捨てる」という強目の言葉を使われたのだと思います。
興奮状態にある人々に対して、一旦立ち止まって、よくよく考えなさいとイエスは問いかけたかったのでしょう。
イエスを第一にするならば…
この時に勘違いしてはならないのは、イエスとの関係を第一にするということは、それ以外の関係を粗末にするということではありません。
イエスを第一にするということは、家族を大切にしないということではありませんし、財産をどうでもいいものと軽く考えるということではありません。
逆説的ではあるが、もし、イエスとの関係が第一となるならば、他のすべての関係はむしろ大切にされます。
なぜなら、私たちがイエスの弟子となるならば、自分の命も家族も持ち物も、その意味合いが変わるからです。
よく「神様を取るのか、家族を取るのか」「教会を取るのか、家族を取るのか」みたいな話を聞くことがあります。
これは牧師家庭の問題として、よく聞く話です。
牧師が家庭を顧みずに、教会のことに没頭して、家族との時間がほとんど持てないというケースがあります。
でも、本来、神様を取ることは、単に教会を取ることではありません。
神様と家族というのは、比較する対象にならないからです。
また、家族というのも教会と対立関係にあるわけではありません。
家族も教会であって、牧師にとっては家族こそ教会だと言えるでしょう。
私がYouTubeで毎週唯一聞いている牧師がいますが、その方が最近の動画でこういうことを言っていました。
その時は「キリスト者の自由」ということがテーマでしたが、その中で「もし、中学生の子供が日曜日に本屋に行きたいと言ったとき、どう応答すべきか」という話をしていました。
その先生は、「そう言われた時『日曜は礼拝だから』と返すのは正論だが、子供を愛するということを考えた時、それは福音的なのか、一考の余地がある」と言っておられました。
「日曜の礼拝が自分にどういう意味があるか」を問い直した上で、子供の気持ちを聞いて一緒に行動することも大切なことだと。
その時、その場で自分がどういう行動をするか、主体的に判断していいのであり、「イエスを主と仰ぐ」ということがクリアであれば、どう行動するかは自由だと。
信仰の実態は主体性であり、枠に嵌められて、やらされてやることには、神様の前に意味がなく、子供を本当に愛するゆえに、子供と一緒に時間を過ごす選択肢もありうる。
こんなことを言っておられました。
確かに、この世のもの、目に見えるものはいつかなくなります。
天にまで持っていくことはできません。
ただ、私たちがイエスとの関係を第一にするならば、イエスの弟子であるならば、家族というのは、どこまでも愛し、受け入れ、仕える対象になるでしょう。
イエスとの関係を第一にするならば、自分の命や財産というのは、単に自分のもの、守るものではなく、人々に仕えるために用いるものになるでしょう。
イエスとの関係を第一にするならば、私たちはイエスの弟子となり、私たちの人生は周りの人と分かち合う人生、分け与える人生となるでしょう。



