牧師ブログ

「何を喜びに生きていますか?」

【ルカによる福音書10:17-20】

17七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

喜びの瞬間

皆さんは普段、どんなことに喜びを感じるでしょうか?
最近、特に大きな喜びを感じた出来事は何かあるでしょうか?

私の場合は、1ヶ月前に父の日がありました。
その時に家族みんなから、手紙をもらいました。
これまでも何度か手紙をもらったことはありましたが、小学生になった娘たちが書いた手紙の内容がちゃんとしてて、成長を感じられて嬉しい思いでした。

また、今年のイースターの時に洗礼式がありました。
私が金沢に来て7年くらいが経ちますが、初めての洗礼式でした。
これも、とても嬉しい出来事でした。

先ほど読んだ聖書の中で、イエスの弟子たちも喜びを感じていました。
この時、弟子たちはどんなことに喜びを感じていたのでしょうか?

72人のイエスの弟子たちは、イエスによって町や村に宣教に遣わされました。
そこではイエスの名前を使って、悪霊を屈服させることもできました。
彼らの働きは、豊かな実りがあったようです。

そのことをイエスに早く報告したかったのでしょう。
弟子たちは、イエスのところに喜んで帰ってきました。

弟子たちは、イエスも一緒に喜んでくれると思ったことでしょう。
しかし、イエスの反応は意外なものでした。

20節を見ると、喜ぶ弟子たちに対して、イエスは「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と言われました。
そして「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたのです。

イエスは、悪霊に打ち勝つ権威を持っておられるお方です。
その権威を、イエスは弟子たちにも与えてくださいました。
その権威と力をもって、弟子たちは宣教に遣わされました。

すると、弟子たちはイエスのように悪霊を追い出すことができました。
弟子たちは自分たちもイエスのようにできたことに、感動したことでしょう。
みんな、イエスの期待に応えることができたと喜んだと思います。

しかし、イエスは悪霊が屈服したことについて、喜んではならないと言われました。
悪霊に打ち勝ち権威を与えたのは、イエスご自身です。
また、弟子たちを宣教に遣わしたのも、イエスご自身です。

それにもかかわらず、なぜイエスはそのようなことを言われたでしょうか?

すでにここにある喜び

おそらく、イエスが伝えたかったことは、こういうことだと思います。

弟子たちにとっては、自分たちがしたことが大事でした。
何をしたか、どういう結果を残したか。
今回であれば、宣教において、良い実りを結んだことが弟子たちの誇りでした。
そのことを弟子たちは喜びました。

これは、イエスにとっても当然、喜ばしいことだったはずです。
そうでなければ、そもそも宣教に遣わすことはなかったと思います。

しかし、イエスにとっては、宣教において良い実りを結んだこととは比べられないほど、喜ばしいことがありました。
それは、弟子たちがやったことではありません。
弟子たちが残した結果ではありません。

彼ら一人一人の名前が天に書き記されていること、これがイエスにとって最も大きな喜びだったのです。

「天に名が書き記されている」というのは、どういうことでしょうか?
それは神様によって、一人ひとりの名前が覚えられているということです。
神様にとって、彼らはみんな神様の尊い子供であり、神様は、彼らの存在を受け入れてくださっています。
これが、天に名が書き記されているということです。

私たちは、ここに出てくる72人の名前はわかりません。
なぜ彼らの名前が天に書き記されるようになったのかもわかりません。
しかし、神様は彼ら一人一人の存在を、受け入れてくださっています。

宣教で良い実りがあるかという結果に関わらず、すでに神様は私たちのことを喜んでくださっています。
すでに喜びはここに存在しているのです。

神の国はアンフェア?

神様の関心はどこにあるのでしょうか?

私たちが生きる社会は、能力やキャリア、お金、地位などによって評価されることが多いと思います。
だから、この社会では、ただ存在しているだけではだめなのです。

ただ何もせずにいるだけだと「怠け者だ」と言われてしまいます。
社会はいつも私たちに「あなたには何ができますか」ということを問いかけてきます。

私たちの社会は競争社会であり、努力すること、結果を出すことが求められます。
この競争社会というのはフェアでしょうか? アンフェアでしょうか?

競争社会は、ある意味で、とてもフェアな世界です。
なぜなら、頑張った人が報われやすい世界だからです。
頑張った人が報われる世界というのは、それなりに魅力的です。

それに対して、神様の世界、神の国はフェアでしょうか? アンフェアでしょうか?
例えば、救いということを考えてみましょう。

救いは努力や頑張りが評価された結果、与えられるものではありません。
救いは、行いによるのではなく、恵みによって与えられるものです。

すべての人に救われる可能性があるという点で、救いはフェアなことです。
神様は人を分け隔てされない方であり、完全にフェアなお方だからです。
ただ、努力や頑張りで評価される世界ではないという意味で、アンフェアに感じる時があります。

普段、競争社会の中で生きている私たちは、頑張っていない人が報われることは、アンフェアなことなので、受け入れがたいことです。
例えば、奉仕をあまりしない、献金をあまりしない、教会の活動にあまり関心がないなど、そういう人が何か恩恵や報いを受けることは納得しがたいことです。
頑張ってないのに、良い思いをするのは、フェアなことじゃないと感じるからです。

もし、神の国も、この社会のようにフェアな世界にしていくとすればどうなるでしょうか?
そこから排除される人々が出てくるでしょう。
「あなたはなぜ何もしないのか?」
「あなたは神の国には相応しくない」と。

神様の関心は、人々の行いやその結果にあるわけではありません。

神様の関心は、私たち自身に向けられています。
私たちがただここに存在しているだけで、もう神様にとっては大きな喜びです。

もちろん努力や頑張りがいらないという意味ではありません。
私たちは努力したこと、頑張ったこと、結果を残したことをを喜ぶことができます。

ただ、その前に、ただここに存在していることを喜ぶことができます。
なぜなら、神様は私という存在を知ってくださっており、すでに神様の尊い子供として受け入れられてくださっているからです。