牧師ブログ

「『愛しなさい』ではない?」

【マルコによる福音書12:28-34】

28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

どの掟が最も重要か

10月の終わりというとハロウィーンの季節だが、キリスト教のプロテスタントにとって、10/31というのは「宗教改革記念日」という日として知られています。

宗教改革によってもたらされた大きな変化は、聖書がすべての信仰者のものになったことにあります。
それまでは、聖書というと、ローマ教皇や教会だけが聖書を正しく解釈できるということで、宗教指導者たちのものでした。

それが宗教改革をきっかけとして、民衆が直接、聖書を手に取り、神様の言葉に触れることができるようになっていきました。

このように聖書を解釈することが民主化されたことによって、聖書が何を言っているかについて、多くの解釈が生まれることになりました。
それまでは、教会が主張する聖書の解釈が絶対のものでしたが、多くの人々が聖書を読めるようになったことで、聖書の言葉がいろいろに解釈されるようになりました。

それ自体はとても健全なことですが、その結果として、プロテスタントはいくつもの教派にわかれていくこととなりました。
このことは、聖書は絶対的なものであったとしても、それを解釈する人間は絶対ではないことを表していると言えます。

イエスの時代に、聖書(この時の聖書は旧約聖書)を解釈していたのが、当時、ラビと言われていた律法学者たちでした。

旧約聖書には、全部で613個の律法があります。
ラビたちは、その中で最も重要な掟が何であるのかという議論があったようです。

今日分かち合う聖書箇所で、ある律法学者がイエスのところを訪れたのも、律法の中でどの掟が最も重要であるのかを尋ねるためでした。
それに対するイエスの答えが、29-31節にあります。

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29-31節)

イエスは、旧約聖書から二つの箇所を引用しながら、答えました。
一つ目は、先ほど読んだ申命記6章からの引用で「私たちの神は唯一の主であり、全てを尽くしてあなたの神を愛しなさい」ということです。

この律法は、成人したユダヤ人男性が、毎日朝夕の二回、唱えていたもので、それぐらい、「神様を愛しなさい」という掟は、律法の中でも重要なものでした。

また、二つ目は、レビ記からの引用で「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。
イエスは「この二つにまさる掟は他にない」と言って、彼に答えました。

愛することも律法主義に

キリスト教はよく「愛の宗教」だと言われます。
聖書は、人間は愛の中で人間らしく生きていけるようになることを教えています。

そのように愛の重要性を理解している一方で、愛することの難しさもよくわかっていると思います。
「あなたは神様を愛して生きていますか?」「隣人を愛する生き方をしていますか?」と問われて、自信をもって「はい!」と答えられる人はどれだけいるでしょうか?

律法学者のように、いくら律法を正しく解釈し、それを理解していたとしても、私たちの問題として、頭ではわかっていながらも、実際には、なかなかその通りにできないということがあります。

また「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」が単なる規律になってしまえば、このことが自分を苦しめるものになることもあります。
これらが規律になると「神様を愛せない自分はダメだ、人を愛せない自分はクリスチャンとして失格だ」と、自分を責めるようになります。

そのように、私たちはなおも律法に支配された律法主義に陥ってしまうことがあります。
特に真面目な人ほどそうなりやすい傾向があると言えます。

「愛するようになる」

私たちはイエスの教えをどのように聞けばいいのでしょうか?
実は、この場面でイエスが答えたことと、旧約聖書に書かれている言葉とで、微妙に違う部分があります。

旧約聖書の律法はすべて「〜しなさい」または「〜してはならない」というように書かれています。
律法は掟であり、戒めなので、命令です。

イエスは旧約聖書から引用して答えたので、今日のところにも「あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」と命令口調で書かれていますが、原文のギリシャ語では、未来形で書かれています。
「愛しなさい」ではなく「愛するようになる」「愛するでしょう」と。

つまり、イエスは、律法の中で最も重要なことは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」であることを教えながら、それを単に律法として教えたわけではありませんでした。

イエスが言われた「愛するようになる」ということは、今はまだ完全に愛することができるわけではないけど、愛するという方向で進んでいくようになるということでしょう。
そして、それが完成するのが、イエスが再臨された後の時代、天の国においてのことです。
イエスは私たちを愛の中で生きる世界に招いてくださったということです。

キリスト教が「愛の宗教」だというこの「愛」というのは、まず、神様が私たちを愛して下さる愛であることを忘れてはなりません。

大切なことは、たとえ誰かを愛せない自分がいたとしても、それでも神様は、私たちのことを愛して下さっているということです。

イエスは最後に、律法学者に対して「あなたは神の国から遠くない」と言われました。
敵のベース、完全アウェーであるエルサレムという場所で敵対する人に対してそう言われたのです。

イエスは、相手の身分や地位によって偏見を持つことなく、どのような人であっても愛をもって受け入れて下さるお方です。
どんな人であっても、イエスは神の国に招いてくださっています。

聖書は「神様を愛すること」また「隣人を愛すること」を教えているが、これらの教えは決してクリスチャンの条件ではありません。

十字架は私たちを無条件で愛する神様の愛の表れです。
イエスは私たちに命令したかったのではなく、私たちを愛の世界で生きるように招いておられるのです。