天使礼拝の不思議
新約聖書の中には多くの手紙が含まれていて、特にパウロが書いたものが多く含まれています。
そんな中で、このヘブライ人への手紙というのは、誰が書いたのかはっきりしてない書物です。
少なくともわかっていることは、迫害の時代の中で書かれたということ、また、ヘブライ人(ユダヤ人)に宛てて書いた手紙であるということです。
その目的は、迫害されているユダヤ人のクリスチャンたちの信仰を励ますことにあったようです。
そのために、著者がはじめに取り上げている話題が今日分かち合うところです。
この手紙の冒頭で語られていることは、キリストは天使よりも優れているということです。
キリストと天使のどちらがもっと偉いのか、優れているのかという話は、私たちにはあまりピンとこないというか、ほとんど考えたことがないことだと思います。
ただ、当時のユダヤ人の間では、天使を礼拝する習慣があったようで、コロサイの信徒への手紙の中に「天使礼拝」という言葉が出てくるように、それが教会の中で行われることもあったようです。
聖書の中には、ガブリエルとかラファエルという天使が出てきますが、そういう天使が礼拝されていたのでしょうか。
今の時代、天使を礼拝しようと考える人はなかなかいないと思いますが、なぜ教会で天使礼拝が行われるようになったのでしょうか?
当然、主なる神様を知っている人々が、なぜ天使を礼拝しようと思ったのでしょうか?
その一つの理由は、神様の超越性が強調されたことにあると考えられます。
神様はあまりにも聖なる方で、偉大すぎるので、人間世界から遠く離れたところに存在しているというのが、神様のイメージとしてありました。
畏れ多くて、人間が神様に直接近づくことなんてできないという感覚です。
それで人々は、神様と自分たちの間に誰かに入ってもらう必要があると考えたのです。
仲介人を置きました。
そこに入り込んできたものの1つが、天使でした。
人間には直接神様に近づいて、礼拝したり、語ったりすることができないので、天使に語りかけ、天使を礼拝しました。
天使を通して、神様に近づき、神様に語ることができると考えたのです。
偶像崇拝の不思議
旧約聖書にあるモーセの時代の話を見ると、人間が神様に直接近づくことはできないというのは、ある面で正しいことです。
旧約聖書の出エジプト記の中に、シナイという山で、モーセは十戒という掟を神様から授かった話が出てきます。
その時に神様に直接近づくことができたのは、唯一、モーセだけでした。
それは、神様がモーセを選んだからです。
神様は「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」とモーセに言われたように、イスラエルの民が直接、神様の顔を見ることは、死に直面することでした。
それぐらい、人間が神様に直接近づくというのは、当たり前にできることではありませんでした。
そういう中で、人間側も考えます。
どうやって神様に近づき、語ることができるのか、と。
それで生み出されたものが、偶像です。
人間には神様のことを直接見たり、語ったりすることはできないので、偶像という目に見えるわかりやすいものを作って、それを神様の代わりに礼拝し始めました。
特に日本の場合はそうだが、偶像の多くが自然の世界と結びついています。
太陽、山、海など、自然の中に溶け込んでいます。
本来、人間世界から超越している神様を、自然の世界に溶け込ませることで、神様を自分たちの近くに置いて、もっとわかりやすくしたのです。
ある意味、偶像というのは、人間の工夫や努力の結果だと言うこともできます。
そうやって、人間も天高く遠いところにいる神様と関わりを持とうとしたのです。
もちろんクリスチャンにとって、偶像崇拝は肯定されるべきことではありませんが、人間が神様を探し求めたしるしとも言えるのです。
関わり続ける神さま
ただ、人間と神様が初めから遠く離れた存在だったのかというと、それは違います。
旧約聖書の創世記を見ると、神様は人間を造られたが、最初、人間は神様と共に語り合いながら生きていく関係でした。
しかし、その後、人間は神様から独立して自由になりたいと考えて、神様から離れていきました。
神様が人間世界を大きく超えているというのは、神様が完全なお方であることももちろんありますが、そこには、人間の罪という問題も深く関係しています。
罪ある人間が、どうやって聖い神様に近づくことができるのかと、その距離感がよくわからなくなっていきました。
それで神様の側も考えて、いろんな方法や手段を使って、神様の方から近づき、語りかけました。
その方法の1つが、1節に書かれている預言者という存在を通して語ることです。
旧約聖書の中に、イザヤ書とかエレミヤ書という書物があるが、これらは預言者が語った言葉が記録されている書物です。
預言者を通して語るというのは、あくまでも神様がイスラエルの民に語るために用いた1つの方法です。
2節を見ると、終わりの時代に、神様が選んだ方法が書かれています。
それが、御子であるイエス・キリストによって語ることです。
神様は終わりの時代、ご自身の独り子であるイエスによって、この世界と関わりを持ち、語られました。
このように、聖書を通して明らかにされている神様の姿は、神様は語られる方であるということです。
人間が神様に語る前に、神様の方から人間に語られました。
人間が神様に語るのをやめた時も、神様は語ることをやめませんでした。
自分から離れていった人間に対して、神様は語り続けたのです。
思春期の親にとって大きな悩みの一つは、子どもとのコミュニケーションです。
子供に話しかけても反応してくれない、無視されるということが起こります。
そうすると、親としても反応してくれない存在に向かって、語りかけることが当然、辛くなります。
それで、話しかけるのをやめるという親もいるでしょう。
ただ、実はこの時、子どもは親の言葉をはっきり聞いているのです。
親からしたら無視されている状態ですが、子どもにとっては、親が自分に関わってくれている瞬間だと言えます。
語り続けるというのは、関わり続けるということだからです。
そのように、神様も人間に対して、たとえどれだけ無視されたとしても、反応がなかったとしても、関わり続けました。
新しい世界
そして、2000年前、新たな局面を迎えます。
神様は最終的に、御子であるキリストを通して語られました。
預言者が語ることと、キリストが語ることと、どこに違いがあるのでしょうか?
両方とも、神様の言葉が伝えられるという面では、一緒だと思いますが、キリストという存在は何を表しているのでしょうか?
キリストが語る時、ただ言葉だけが伝えられたのではありません。
神様は、イエスという1人の人格を通して、ご自身を明らかにされました。
3節に「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって」とあるように、キリストは神様そのものです。
だからこそ、キリストが語った言葉だけではなく、その行いと生涯が伝えられてきたのです。
人間は、自分たちの近くにわかりやすい形で神様を置くために、これまでにいろんな偶像を作ってきましたが、もうその努力は必要ありません。
なぜなら、神様が私たちの世界に直接、入ってきてくださったからです。
終わりの時代が始まってから、はや2000年が経ちました。
私たちの感覚としては、終わりにしては長いなと感じるかもしれませんが、これは単に時間の話ではありません。
終わりの時代は、神様がこの世界に直接入って来られたという意味で、新しい世界であり、新しい時代なのです。
神様と私たち人間との間には、偶像ではなく、また天使でもなく、キリストがおられます。
私たちは、このお方を通して神様を知り、神様に直接語ることができることを知りました。
神様との距離感を取り戻すことができたのです。
神様は天高く、遠く離れた世界におられる方ではありません。
私たちの間に入って、今日も私たちと語り合いながら、最後まで共に歩んでくださるお方です。