難解な出来事の連続
この地に天から聖霊が注がれたことによって、教会が誕生しました。
そして、教会によってキリストの名が宣べ伝えられていくことによって、宣教の働きが進められていきました。
教会の誕生と宣教の働き、これらの原動力となったもの、それが聖霊でした。
その聖霊がこの地に注がれる瞬間を記しているのが、使徒言行録の2章です。
そこを見ると、私たちの理解を超える難解なことが書かれています。
聖霊が注がれたのは、ユダヤの三大祝祭のうちの一つである五旬祭という祭りの期間のことでした。
そこには、キリストの十二弟子をはじめとして、弟子たち120人ほどが一つに集まっていました。
この120人の上に、聖霊が注がれることになりますが、その時にとても不思議なことが起こりました。
集まっていた人々は、突然、激しい風が吹いてくるような音を聞きました。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。
すると、彼らは聖霊に満たされて、突然、外国の言葉で話し始めたのです。
この時に起こった一つ一つの現象を理解して、説明することは困難です。
これら神秘的とも言える出来事が意味することは何でしょうか?
それは、聖霊降臨という出来事は、完全に神様によって引き起こされたことだということです。
教会誕生の瞬間
2節にある「突然」という言葉に注目してみると、突然起こることというのは、想定外の出来事です。
突然、お腹が痛くなったとか、突然、雨が降ってきたというように、突然起こる出来事というのは、こちらで計画したり意図したりしたことではないという共通点があります。
聖霊降臨という出来事が「突然」起こったということは、これが人間がなしたわざではないことを意味します。
それはつまり、人間が用意周到に準備して、計画の中で実現したことではなく、神様の計画によってなされた出来事だということです。
このように、教会というのは、突如としてこの地に誕生し、ロケットスタートを切ったのです。
ここが、教会とこの社会のあらゆる団体との違いです。
会社や学校、サークルなどの組織は、初めに中心となる人物がいて、そのリーダーの理念に賛同する人々が集まり、組織化されていきます。
しかし、教会はそうではありませんでした。
カリスマを持ったリーダーが人々を感化したわけでもなく、共通の目的や理念を持って始められたわけでもありません。
人間にとっては突然の出来事でしたが、それは神様の側で計画され、実現したことだったのです。
そうだとすれば、教会という存在や教会によってなされる働きを人間の側でストップすることはできないということになります。
人間の側の意図や情熱を超えるところにあるのが、教会なのです。
聖霊の力
突然の出来事により、天から聖霊が注がれ、この地に教会が誕生しましたが、その時人々は、他の国々の言葉で話し始めました。
ここで重要なことは、彼らが外国語を話したという神秘的な面以上に、どんな話をしていたのかというその中身です。
聖霊は彼らに何を語らせたのでしょうか?
その日は五旬祭を祝うために、普段は外国にいる多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まっていました。
彼らは聖霊が満たされた人々が、自分の故郷の言葉で話しているという不思議な光景を目の当たりにし、驚きました。
彼らが聞いたのは、自分たちの言葉で語られている「神の偉大な業」でした。
その不可思議な光景を見ながら「あの人たちは、酒に酔っているのだ」とあざける人々もいました。
だからと言って、神の偉大な業を語り出した人々は、それを決してやめませんでした。
聖霊に満たされて神の偉大な業を語り出した人々は、キリストが逮捕された後、みなキリストから離れていき、今度は自分たちが捕まって殺されるんじゃないかと、ユダヤ人たちを恐れてビクビクしていた人々です。
しかし、ここにはもはやそういう姿は見られません。
聖霊に満たされた人々は、ユダヤ人からあざけられても、神の偉大な業を語り続けたのです。
聖霊は人々の弱さや欠けを超えて、力を発揮する三位一体の神様ご自身です。
聖霊によって誕生した教会は、聖霊によって神の偉大な業を語り続ける存在として、この地上で歩んでいくのです。