神の支配からの卒業
私たちの人生には、二通りの生き方があります。
一つは「肉に従って歩む生き方」で、もう一つは「霊に従って歩む生き方」、この二つです。
人間は皆、この二つのうちのどちらかの生き方をしていると言うことができるでしょう。
まず、肉に従う生き方とはどういうものなのか考えてみたいと思います。
7節を見ると「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」とパウロは言っています。
肉の思いに従う時、私たちは神様に敵対し、神様の律法に従うことができない状態に陥ります。
ただ、神様に敵対していると言っても、あからさまに神様を憎んだり、攻撃したりするというよりも、神様を無視して、神様との関わりを持たないという意味合いでしょう。
だから、肉に従うというのは、単に自分の欲望のままに生きるとか、道徳的に堕落しているとか、そういうことではありません。
神様から離れた状態にある時、それは神様に敵対している状態であり、肉に従う生き方となります。
つまり、肉に従うというのは、神様から独立した状態で生きていくということです。
創世記のアダムとエバが、神様の元から離れていってしまった場面を思い出してみましょう。
二人は神様の言葉に反して、善悪を知る木の実を食べてしまいました。
それを決定づけたのは、二人が実を食べる直前に蛇が語った言葉にあります。
蛇はエバに対して「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と誘いました。
この言葉を聞いて、エバは木の実を食べ、アダムにもそれを渡して一緒に食べました。
ここで二人の心を動かしたのは「自分たちも神のようになれる」という言葉だったのでしょう。
自分たちが神のようになれば、どうなるでしょうか?
もう神様は必要なくなります。
おそらく、善悪を知る木の実を食べる時の二人の心を想像すると「神様、もう私たちはあなたがいなくても大丈夫です。これからは私たちでやっていきます。これまでどうもお世話になりました。」
こういう神様からの独立心が生じていたのではないかと思います。
結局すべては自分次第?
この時、二人は神様を信じなくなったわけではありません。
その後、神様がエデンの園を歩く音が聞こえてきた時、アダムとエバは神様の顔を避けて、木の間に隠れました。
神様にバレたらやばいと思って隠れたのは、二人が神様のことを知っているからです。
人間が神様から独立すると、どういう状態になるでしょうか?
すべては自分次第になります。
何をするにもすべて、自分の努力次第です。
もちろん、努力する必要なんてないということではありません。
自分がどれだけ頑張るかによってすべてが決まるというマインドになるということです。
そうなると、神様を知っていたとしても、神様に祈る必要がなくなります。
自分次第なので、祈っても別に何も変わりません。
神様には特別用がなくなるし、必要性も感じなくなります。
もちろん、多くの日本人のように、そもそも神様自体を知らないという場合もあると思いますが、知っていたとしても、知らなかったとしても、生き方としては一緒です。
すべては自分次第。
「結局は、自分の努力次第でしょ」というマインドで生きていくことになります。
だから、7節の後半にあるように、肉に従って生きる時、神様の律法に従うことができなくなります。
神様に従えないというのは、意志が弱いとか、努力が足りないとかそういう問題ではありません。
神様から独立していても、良い行いをすることもあります。
時には、宗教的な行為をすることもあります。
必ずしも、道徳的に大きな罪を犯しているということでもありません。
神様と距離を取っている状態なので、神様が必要だと思えば、使います。
6節を見るとパウロは「肉の思いは死である」と言っています。
この死というのは、神様との関係において死んでいる状態のことです。
神様のことを遠ざけると、人間は自分の価値観や力、欲求が生活を基準に生きていくことになります。
こういう状態のことを、聖書では罪の中にいると言っています。
命と平和の中で
しかし、パウロはもう一つの生き方を提唱します。
それが、霊に従う生き方です。
2節に「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」とあります。
神様はイエスキリストによって、私たちを肉の支配下ではなく、霊の支配のもとで生きるようにしてくださいました。
肉から霊へ、主人の変化が起こったのです。
神様という主人の子供として生きるという、身分の変化が起こったのです。
肉に従っている時は、すべてのことが主人である自分次第でした。
神様に祈っても何も変わらないので、自分でなんとかするしかありませんでした。
神様は何も助けてくれないので、自分でどうにかするしかありませんでした。
自分の努力と頑張りで、結果を出さなければなりませんでした。
それに対して、霊に従う生き方は、すでに神様に受け入れられている状態であるところから始まります。
肉に従っている時、私たちは自分自身に「今のままではダメだ。もっと頑張りなさい」と命令してきます。
しかし、神様はそうは言われません。
6節に「霊の思いは命と平和であります」とある通り、命を平和の中を生きるようになります。
もちろん、神様から受け入れられているとしても、すぐに自分のことを全て受け入れられるようになるわけではありません。
私たちの中ではいつも、戦いと葛藤があります。
クリスチャンだからと言って、もう罪を犯さなくなるというわけではありません。
怒りや不安を感じることもありますし、結果が出ない時、できない自分を責めたり、惨めな思いを感じたりすることもあります。
しかし、そこに神様がいれば、またそこから立ち上がる力を神様がくださいます。
自分自身の現実と向き合うことができるように神様が助けてくれます。
それができるのは、すでに過去、現在、未来、私たちの全てを神様が受け入れてくださっているからです。
霊に従い始める時、私たちの人生は、命と平和に満たされていくのです。



