牧師ブログ

「すべての人に開かれている神の国」

【ヨハネによる福音書3:1-9】

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

どうしてそんなことがありましょうか

今読んだところは、この福音書を書いたヨハネの神学が凝縮されている場面の一つです。
この話は、ニコデモという人がイエスを訪ねたところから始まります。

ニコデモはユダヤの議員であり、ファリサイ派に属していました。
当時のユダヤには、サンヘドリンという議会がありました。
この議会は、政治や宗教においてユダヤのトップ機関でした。

全部で71人の議員で構成されていて、議員になれたのは祭司や律法学者など、ユダヤの宗教的な指導者たちであり、いわゆるエリートと言われる人々でした。

また、ニコデモが属していたファリサイ派というグループは、律法を厳格に守ることで、宗教的に、また道徳的にも正しくあることを目指しました。
当時のユダヤには、ファリサイ派に属する人が6000人ほどいたと言われていますが、その中でサンヘドリンの議員として選ばれたのがニコデモでした。

つまり、ニコデモというのは、宗教的にも道徳的にも最高レベルにあった超エリートで、ユダヤ人からしたら、神の国に最も近い人だと見られていたでしょう。
神の国の最前列にいたのが、ニコデモでした。

そんなニコデモが、イエスのところにやってきました。
当時、イエスがなさったいろいろな奇跡やしるしを見て、多くのユダヤ人たちがイエスをメシアとして信じ始めるようになっていました。
それでニコデモは、イエスを訪れて、本当にメシアであるのかどうか、本人に話を聞きに行ったようです。

2節を見ると、ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」とイエスに問いかけています。

ニコデモは、イエスの口から直接「私が神のもとから来たメシアである」という明確な言葉を聞きたかったのだと思います。
イエスがメシアであるという確かなしるしが欲しかったようです。

これに対してイエスは、どのように答えたでしょうか?
イエスはニコデモの話とは、全く別の話を始めました。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)

3節と5節は、同じ意味の言葉が繰り返されています。
「新たに生まれる」というのは「水と霊とによって生まれる」ということであり、「神の国に入る」というのは「神の国を見る」ということだと言えます。

つまりイエスは、ニコデモに対して「あなたが神の国に入るには、新たに生まれないとならない」というメッセージを伝えたということです。

この一連の話を聞いて、ニコデモは「どうして、そんなことがありましょうか」と9節で答えているように、ニコデモには、イエスの話は全く理解ができないことでした。
というのも、ニコデモからしたら、自分は神の国に一番近い人でした。
律法を忠実に守り、宗教的にも道徳的にも最高レベルにある自分が、神の国に入れないというのは、到底受け入れられない話だったでしょう。

上からの出来事

イエスのメッセージにはどのような意味が込められていたでしょうか?
イエスは「新たに生まれる」と言いましたが、新たに生まれることは、単に再び生まれるということではありません。

この「新たに」という言葉にはもう一つの意味があります。
それが「上から」という意味です。

新たに生まれるということは、上から生まれるということです。
上というのは天のことです。
つまり、新たに生まれるというのは、天の神から生まれるということであり、同時に、水と霊とによって生まれるということでもあります。

水と霊について、エゼキエル書36章で次のように語られています。

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。(エゼキエル36:25-26)

水と霊とによって生まれるというのは、上から生まれるということであり、それを行うのは神様です。
ここでイエスが繰り返し語っていることは、神様による新しい創造の話です。

8節を見ると、イエスは風の話をしながら「霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言っています。
ギリシャ語で風と霊というのは、プニューマという同じ言葉で表されます。
風というのは、人間の目には見えないものであり、人間がコントロールすることができないものです。
同じように霊というのも人間の目には見えず、またコントロールできないものです。

そのように、新しく生まれるということも、何か人間がコントロールしてできることではありません。
神様によって、新しく創造されなければなりません。

しかし、当時のユダヤでは、ニコデモのように律法を守ることで宗教的にも、道徳的にも正しい人となり、神の国に入ることができると信じられていました。
議員という社会的な地位があったとしても、律法を守る努力をしたとしても、それは、神の国に入るためのものではありません。

新しい誕生は、上、天からの出来事です。
ニコデモは、新しく生まれるという話を聞いて「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いましたが、新しい誕生が天からの出来事であれば、年齢は関係ありません。

救いというのは、信仰によるものであり、神の国はすべての人に開かれているのです。