牧師ブログ

「つまずきは避けられない」

【ルカによる福音書17:1-4】

1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

条件付きの赦し?

3節と4節の終わりに「赦してやりなさい」と書かれていました。
これは、イエスが弟子たちに向けて語られたことで、他にも聖書を見ると「愛しなさい」とか「赦しなさい」ということが言われています。

「赦しなさい」というメッセージは、私たちの心に葛藤を生じさせることがあります。
「頭では赦したいという気持ちはあるけど、心が追いつかない」とか「もちろん、相手が謝ってくれたら赦すけど、相手の態度が変わらない限りは赦すことは難しい」とか、また出来事の大きさによっては「何があっても絶対に赦す気にはなれない」という気持ちを抱くこともあると思います。

そもそも「赦しなさい」というのは理想論であり、無理があるんじゃないかと考える人もいるかもしれませんし、クリスチャンの中には、「聖書の言葉通りにできない自分は、ダメなクリスチャンなんじゃないか」と自分を責めるような心を抱くこともあるかもしれません。

このように「赦しなさい」という言葉は、私たちにいろんな葛藤や思いを生じさせます。

「赦しなさい」という言葉自体はとてもシンプルであって、すぐにそうできれば悩むことはないのだと思いますが、ただ私たちの心はそんなにシンプルではありません。

それでは、私たちはこの「赦しなさい」というメッセージをどのように受け止めればいいのでしょうか?

3〜4節を見ると、イエスは誰かが罪を犯したなら、まずその人を戒め、それで相手が悔い改めれば、赦してやりなさいと言っています。
しかも、自分に対して何度繰り返し罪を犯したとしても、その都度「悔い改めます」と言うのであれば、赦してやりなさいということです。

ここでイエスが言っていることは「何がなんでも赦しなさい」ということとは少し異なるようです。
「赦してやりなさい」ということの前に、一つの条件がついていて、それが「悔い改めるのであれば」ということです。

つまり「相手が悔い改めるという条件をクリアするのであれば、赦してやりなさい」というのが、ここでイエスが言っていることです。

無条件の赦し

そうだとすると、この言葉は「相手が悔い改めないのであれば、赦してあげなくてもいい」というふうにも捉えることができます。

ただ、私たちが聖書から知っていることは、条件付きではなく、無条件に赦すということだと思います。
神様の赦し、私たちに対する神様の赦しというのは、無条件であったはずです。

ルカによる福音書の23章には、イエス様が十字架につけられ、殺される場面が書かれています。
そこでイエス様が十字架にかけられた直後に言われた印象的な言葉があります。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

この言葉は、イエスが十字架の上から、自分たちを十字架にかけた兵士たちに語っている言葉です。
ローマの兵士たちは、罪のない救い主であるイエスを十字架にかけて殺そうとしました。

しかしイエスは、彼らは自分が何をやっているのかわからずにしていることだから、彼らを赦してくださいと、父なる神様に祈ったのです。

この場面でイエスは、自分を十字架につけて殺そうとしている人々について「もし彼らが悔い改めるのであれば、赦してあげてください」と言ったのではなく、ただ赦してくださいと言われました。
これが、私たちが知っている神様の愛であり、無条件の赦しです。

また、別の箇所では、こういう神様の愛についてパウロはこう言っています。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)

イエスは私たちのために死んでくださったが、それは、私たちがまだ罪人であったときのことです。
「わたしたちがまだ罪人であったとき」という言葉は、私たちが悔い改めることも何も知らない罪人であった時ということです。

つまり、イエスは悔い改めることを知らない罪人であった私たちのために死んでくださり、私たちのことを赦してくださったのです。

海に投げ込まれるべきこの身

こういう話から、よく教会では「イエスが私たちを無条件で赦してくださったように、私たちも誰かを無条件で赦しましょう」というメッセージが語られることがあります。
もし、これができれば本当に素晴らしいことです。

これもまたよく語られることで「イエスに従いましょう」とか「イエスに倣いましょう」と言われることがあります。
これも最もな話ですが、ただそれと同時に、私がもう一つ大切に考えていることは「私はイエスではない、私は神様ではない」ということです。

これは、言いようによっては開き直りのようにも聞こえてしまうかもしれませんが、忘れてはならない視点だと思います。

先週、マウントクリスチャンという話をしましたが、正しさによって人を裁き、攻撃するということも、自分が人間であるということを忘れ、思い上がってしまう時に起こってくることだと思います。

聖書は確かに、人間は神様のかたち、神様に似せて作られ、イエスの似姿へと成長していくと教えていますが、私たちの救いが完成するのは、あくまでも天においてのことです。
肉体という弱さを持っている限り、私たちは、神様にはなれないし、神様のように振る舞うこともできません。

今日の箇所の中で、どうしても「赦してあげなさい」という言葉ばかりに目がいくかもしれませんが、イエスはそういう話をする前に、もう一つのことを語っています。

1〜2節を見ると、イエスは、誰かをつまずかせる者は、首にひきうすをかけられて、海に投げ込まれてしまう方がましだと言われました。
これはとても怖い言葉です。

誰かをつまずかせること、これはすなわち、人を苦しめたり、傷つけたりするようなことがあれば、当然、裁きを受けるべきだということです。
人に対して犯した罪を犯すならば、その罪は裁かれるべきであるということです。

赦しの実際

ただ、イエスは同時に「つまずきは避けられない」とも言っておられます。
これは、私たち人間の弱さをよく理解した言葉だと思います。
人間なので、つまずきを与えられることや反対に、自分が誰かをつまずかせることは避けられないということです。

このように、イエスは赦しのメッセージを語る前に「人をつまずかせないように」という話をしています。
これを踏まえて、赦してやりなさいという言葉を聞く必要があるのだと思います。
そうすると、イエスが伝えたかったことは、こういうことではないでしょうか。

「誰かをつまずかせてしまうこともあるし、誰かからつまずきを与えられることもあるかもしれない。人間として生きていく限りは、つまずきは避けられない。そうやって人をつまずかせるのならば、本当は海に投げ込まれた方がましである。でも、あなたたちが与えるすべてのつまずきのために、私は十字架にかかって罪の代価をこの身に受ける。だから、あなたたちはもう裁き合って生きるのではなく、赦し合って生きていきなさい。」

ここにはこんなメッセージが込められているのだと想像します。
「赦してあげなさい」ということだけを聞くと、一方的な感じがしますが、イエスが言いたかったことは「お互いに赦し合って生きていこう」ということだったと思います。

皆さんが経験しているように、赦すということは簡単なことではありませんし、私たちの心を騒がせる問題です。

赦せないという気持ちを抱く時「赦さないと、赦さないと」という心は、自分に大きなダメージとストレスを与えてしまいます。
でも、人を赦せないことは決して罪ではありませんし、それで自分を責める必要もありません。
それは私たちの心が実装している感情という機能であり、正直な心の反応です。

一つだけ確かに言えることは、つまずきを与え合って生きている私たちのために、イエスが死んでくださり、すでにすべてのつまずきを赦してくださっているということです。

このイエスの無条件の赦しを受けた者として、私たちは生きていくのです。